トイガン史 1963 ~ 1993 - あるガンマニアの追憶 -
文 出二夢カズヤ
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第2回 1974~1979年 ABSモデルガンとの出会い TVドラマの影響
少ない小遣いをコツコツと貯めてようやく手に入れた、マルシン工業製のワルサーP38。その発売時期から見るに、当時の私は小学3年生になっていたようだ。
963g(カタログデータ)という、金属製モデルガンならではのズッシリとした重量に、強烈な「本物らしさ」を感じてドキドキしたことを、今もはっきりと思い出す。
スライドを引く際、ルパンの様に口で咥えて行おうと試み、絶対無理と諦めたことは言うまでも無いが、初めて扱うオートマチックハンドガンの、個々のパーツが絶妙に噛み合って動作する様子は、それまで手にしたどんな玩具よりもワクワクさせてくれたものだ。
当時既に、いわゆる巻き玉火薬を使用するブリキ製の鉄砲の玩具で遊んでいたため、マルシンのワルサーP38を発火させることにも躊躇いは一切無かった。ところが、悲しいかなそこは何の情報も持たない小学生。火薬を使えば、ルパン三世劇中のようにブローバックするものと思い込んでいたのだ。
当時の玩具店や駄菓子屋で売っていた、モデルガン用の火薬である雷印優秀平玉のパッケージ。
しかし、カートリッジ先端にある、火薬を入れるための小さな窪みは、どう頑張っても、台紙から切り取った火薬が2粒入る程度のスペースしか無い。
それでも、せっせと火薬を詰めてマガジンに装填し、初めて発火する準備を整えた。
脳内ではルパン三世のテーマが鳴り響き、どっかーんとブローバックする様を想い描きながら、ワクワクしつつトリガーを引いたのだが、現実は想像と違い、「パチン!」という小さな破裂音と、スライドとチェンバーの隙間から、白い煙が静かに上がっただけだった。「そんなはずは無い」というのが、その時の私の心境である。
こちらが雷印優秀平玉、いわゆる平玉火薬である。四角い台紙の中央に見える丸い部分が固められた火薬で、これらを一粒ずつ慎重に剥がして、カートリッジ先端に詰めていたのだ。
きっと火薬の量が少なかったんだと思った私は、倍の量となる4粒の火薬を無理やり盛り上げ、小さく切ったセロテープで蓋をして、再度発火にチャレンジした。
ところが今度は、カートリッジ先端の火薬がチャンバー内の激針につっかえて、スライドが完全閉鎖しないのだ。
なんとか閉鎖してくれないかと、スライド後部を恐る恐る押し込んだところ、当然のことながら火薬が破裂。さっきよりも遥かに大きい音と火花は上がったが、ブローバックなどするはずもなく、「思ってたのと違う」と、少年の私はただ落胆するばかりであった。
それでも、憧れ抜いて手に入れたワルサーP38である。そういう物だと割り切って遊ぶ分には充分楽しめていたのだが、ある日、いつもの空き地に同級生が持って来た1挺の玩具銃に大いなる衝撃を受ける。それは、かのMGCが1971年に発売した初のABS製モデルガン、S&Wハイウェイパトロールマン41(ハイパト)だった。
初めて触れたABSモデルガンであるS&Wハイウェイパトロールマン41(右下)と、初めて買ったABSモデルガンである、ハイウェイパトロールマン44、4インチ(左上)の揃い踏み。
モデルガンに対する価値観を塗り替えてくれた、思い出深い2挺だ。テカテカと光るABSの黒い地肌が何とも魅力的である。
まず、「黒い」という事だけでもかなり驚いたのだが、同級生がトリガーを引いた瞬間、銃口から青白い炎が噴き出したことに、腰が抜けるほどのインパクトがあったのだ。
炎と言っても、ほんの一瞬、1cmほどの発火炎が見えただけだが、銃口が完全に塞がった自分のワルサーP38では決して味わうことの出来ないマズルフラッシュの迫力。また、閉鎖されたチェンバー内で鳴るパチンという破裂音とは違い、パーンと前方に抜ける「銃声」の響きに、それまでの価値観が完全に塗り替えられてしまった。
それからは、ABS製モデルガンを手に入れることだけを考える日々が始まった。また少ない小遣いをコツコツと貯めながら、少年誌に掲載されていたモデルガンの広告を切り取って学校に持ち込み、休み時間中ずっと眺めて過ごす毎日である。
そして念願かなったのは1977年、小学6年生の時。人生初のABS製モデルガン、MGCハイウェイパトロールマン44の4インチを、上野アメ横のMGCで、ついに購入することが出来たのだ。
初めて手にしたABS製のリボルバーは確かに軽かったが、真鍮製のカートリッジを6発、シリンダーに装填することで、それなりの重量感は味わえた。何より、銃本体が「黒い」ということと、インサートが入っているとはいえ、「銃身が抜けている」ことが、とてつもない高揚感を与えてくれた。
当時テレビでは、「太陽にほえろ」や、「Gメン'75」といった刑事ドラマが放映されており、銃撃シーンに大喜びしていたのだが、石原プロ制作による「大都会シリーズ」という、鉄砲大好き少年の人生を大きく狂わせるドラマが1976年にスタートする。
実際、本格的に見始めたのは、翌1977年からの「大都会 PART2」以降なのだが、毎回派手なカーアクションと銃撃戦が繰り広げられる展開が、当時中学生になっていた私と鉄砲仲間の心を鷲掴みにしたのは言うまでもなく、学校が終わると、大急ぎで近所の空き地に集まり、日が暮れて手元が見えなくなるまで、毎日モデルガンをぶっ放していた。
そして1979年は、かの有名なガンアクションドラマ「西部警察」が始まった年だった(放送開始は同年10月)。
第1話から主砲を備えた装甲車が登場するというド派手な演出と、大都会PART3の出演者をほぼそのまま起用する大胆さは、我々の心をガッチリと掴んで離さなかった。
折りしもテレビでは、海外戦争ドラマ「コンバット!」の再放送や、「ダーティーハリー」「ワイルドギース」といった熱い映画が放映されており、我々のモデルガンに対する熱意は益々加速して行くばかりである。特に「ワイルドギース」は、2017年現在に至るまで続く私のUZI好きを決定付けた作品だったのだが、その話しは別の機会に譲ろう。
弾の出ないモデルガンで、「銃撃戦」と称して撃ち合っていたのは、完全にそうしたドラマや映画の影響だ。毎日火薬の煤で真っ黒になって遊び、夜は学校の宿題もそこそこに、せっせと愛銃の手入れである。それぞれの親は、さぞや呆れていたことだろう。
そんな日々を過ごすうちに、時代は1980年代のモデルガン全盛期を迎えることになる。
資料協力:稲葉秀雄、空と模型とトイガンと +
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出二夢カズヤ (でにむ かずや)
1965年6月、埼玉県生まれ。物心ついた時からの鉄砲好き。高校時代に月刊コンバットマガジンの初代編集長と知り合ったのをきっかけに、1985年に比出無カズヤとして、同誌にてライターデビュー。以来1990年代初頭まで、トイガン業界の裏と表を渡り歩く。 ブログ UZI SIX MILLIMETER |
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