ヒゲKOBA回顧録 パート1
本記事はGunマガジン 2014年5月号に掲載された第19回の転載です。
なお、記事中の法令解説等は執筆者の個人的見解に基づくものであり、その正確性は保証されません。

ヒゲKOBA 回顧録 トイガン規制 パート1

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文・イラスト/小林太三

総理府令はこうして出来上がった

最近、日本製エアソフトガンのプラスチックボディーを着せ替えられる海外製の黒いメタルボディー・キットが輸入されて、日本国内でインターネットやショップで売られているのを良く見かける。

現在の日本国内では、昭和46年以降、総理府令という法律で、金属製の拳銃タイプのモデルガンの外観色は「白または黄色」と定められ、52年4月以降からは、その素材や構造に至るまで事細かく規制された。
一方この法律が定められた以降に発達した日本のエアソフトガンには、その後の平成18年、銃刀法によってパワーの上限が定められた。

しかしその圧倒的なマーケットシェアにより、飛躍的に発展した現在のエアソフトガンの外観は、今やモデルガン以上にリアルな物になっている。

いわゆるガレージ・メーカーは別として、日本のエアソフトガン・メーカーは業界のどこかのトイガン組合に属しているため、それ等が定める自主安全基準に準拠した製品を作っている現状から、当該監督官庁でも、「それ等の安全基準に準拠したものであれば、それがモデルガンと同様の外観を持つ物であっても、“改造を加えない限り”総理布令で言うところの"模造拳銃"には当たらない」との判断がなされている(注:警視庁ホームページ『モデルガン、エアソフトガンについて』参照)。

しかし冒頭の“黒い金属製のボディーキット”に着せ替えたエアソフトガンと、焼き入れしたインサートがガチガチにぶち込まれ、火薬のカスが詰まってすぐに撃てなくなる悲しい金メッキのメタル・モデルガンとでは、外観色と材質等に、かなりの誤差が生じていて、まさにドウナッテンノ?? と、両者の整合性を疑いたくなるのが現状だ。

したがってこの両者間の整合性のズレから、業界では、やれ「ハーフメタルはOK」とか、「外観の金属パーツは50%まではOK」とか、「厚みのあるアルミが良いのだから“薄い鉄板”だって良いんだ」とか、「スライドとフレームをバラしておけば大丈夫」といった無根拠で身勝手な解釈を振りかざして、ユーザーを銃刀法違反者にしかねないエアガンショップが、最近増えているようだ。

でも、これ等の規制内容を細かく規定している銃刀法や総理府令は、(法)と(令)の違いこそあれ、どちらも国会で承認されたれっきとした法律なのだ。だからこれに違反すれは、他の犯罪を取り締まる刑法と同様に“裁判の結果、重い刑罰が科せられる”という事を忘れないで欲しい。

「必ず分解して保存してください」と注意書きをつけるということは「ヤバイ!」と知っての売り方、これは確信犯罪だよ!
いくら好きとはいえ、法律を犯したり、同好者が巻き込まれるような行為は、けっして文化的行為とは云えないヨ!


私達モデルガン第一世代の業界人が、取り締まり官庁と生きるか死ぬかのせめぎ合いの末、やっと折り合えたこれ等の法律なのに、今のカスタム・ショップの経営者達は、なぜこんなに身勝手な解釈をし、その結果、今度はエアソフトガンまでも泥沼に引きずり込んでもかまわないというのか、私は腹が立って仕方がない。

振り返ってみるとモデルガン規制がなされたのは1971年と77年。当時私は40歳。今から37年前の出来事だ。だから黒メタルの着せ替えを売るパーツ・ショップの店長達は、当時はまだ生まれてはいなかったか、オムツをして、アヒルの子のようにヨチヨチ歩きをしていたんだろう。

でも、立法当時に生まれていたか否かは、その法律の適用には全く関係がないということを忘れないでほしい!

確かに今のエアソフトガンは、法律でその威力が規制されている。しかし監督官庁のエアソフトガンへの解釈や総理府令との整合性について、平成15年頃には、両者の矛盾を埋めるため、銃刀法第2条の[模造拳銃]に関する規制については、『モデルガン、ソフトエアーガンの別なく、金属で作られ、かつけん銃に著しく類似する物すべてについて、適用されるものとする』との内容の、行政官庁同士の見解の統一を促す文面が入ったファックスが、省庁間ですでに流されていた。
 
てな訳で、今回はいつもとちょっと違った書き出しに、「アレ?」と思われただろうが、最初の規制から40年余り過ぎ、時代の経過とともに変化してきた諸事情や矛盾、そして立法当時を振り返ってみると、総理府令に書いてある理由や、書いてないけれど「こういうことなんだよ」といった条文の持つ意味と解釈等、これ等を業界の若きプロ達のために、そろそろ実践的に説いておかなければいけない時期が来たのではないかと思う。

そこで、今回からは今までの総理府令の法解釈とは異なり、MGCの技術系重役でモデルガン創始者としての立場で、当時、警察庁の技術担当官との規制の技術内容に係わる改造防止策への解釈や採用についてのやり取りを基にした内容を、今度はコバ流に噛み砕いて解説して、金属時代のモデルガン・シリーズの締めくくりにしたいと思う。

本来ならば、もっと早く規制に係わる話をするのが筋なのだが、実は46年の規制の直後、弟のように思い育ててきたMGCの若手エンジニアの一人が、モデルガンの将来を悲観して「この業界から足を洗う」と退職したり、その他のストレスも加わって、私も「やはり日本ではモデルガンは“日陰モノ”でしかないのか?」と迷うあまり、10日ほど飛騨の高山方面にMGCから家出? したこともあった。
そしていっそのこと、若い頃から友人やMGCの若手に好評だったコバヤシ・カレーのレシピを活かし、軽トラ屋台のカレー屋になるか? それとも、こんな悲しい日本を捨てて、銃の本場アメリカで実銃のガンスミスに転身しようか? と、真剣に悩む日が続いたのだが、そんな私の気持ちを察知したカミサンが、「本当にやりたいのならイイよ! 私、子供と付いて行くから」と言ってくれたのだった。

しかし私はその一言で我に返り、これから大津波のように向かって来るであろうモデルガン規制に対して、法科系のボスとは別の、「三度の飯よりトイガンが好きなマニア上がりのエンジニアにしか出来ないやりかたで、規制という大津波に立ち向かうのが、本来の私の道ではないか!」と、心を決めたのであった。

この頃には、そんな様々な出来事もあり、やはり「飛び道具とは卑怯なり!」という数百年前の諺が今の世でも残る日本では、「所詮トイガン文化なぞというものは、日本では“似非モノ”なのか?」と、ことが起きる度に長年悩んでいたのだが、今まで作り続けたモデルガンをこよなく愛してくれる沢山のモデルガン・ファンの皆さんが、会うたびに勇気づけてくれるのも、これまた現実。
そして今では、インターネットの世界でも一つのホビー・ジャンルとなっていることも、また現実だ。

そして最近、本誌(Gunマガジン)に私の回顧録を書くようになり、「40年以上前の規制当時のことを、今の若い人達のために書いて欲しい」との要望があったのだが、私自身は、公私ともにあの時代のことはあまり思い返したくはなかった。

だが最近、冒頭に書いたような、モデルガン規制が出来た当時の事情や法解釈を無視した商売が公然と行われるのを目にするようになり、これでは私達がやってきたあの当時の苦労は何だったのか?と、この項を書き始める気持ちになったのだ。

だから今度は、あくまでもモデルガン・クリエーターであるコバ流の切り口で、当時のエピソードや裏話を交えて話を進めたい。


モデルガン規制と反対運動

最初のモデルガン規制というと、拳銃タイプの金属製モデルガンの銃口を閉塞し、外観色が白又は黄色と定められた昭和46年規制を想像する方が多いだろう。

この時には、規制の趣旨が“誤認防止”であったために、銃口が詰まっていて、外観が実銃にはない色という、誠に取り締まり側のご都合第一の内容だった。

したがって、モデルガンを向けられた相手にとってはそれで良いが、危険な改造への防止効果は全くないものであった。

MGC以外の業者達は「銃口を詰め、色さえ塗ればオーケー」という規制内容に「警察はわかってないネエ!」と喜んだが、私とボスは、これは「警察の仕掛けた罠だ!」と組合の他業者を説いたのだが、「取り越し苦労だよ!」と一蹴され、辛うじて(王冠マーク)や(SMマーク)等の自主基準の認識マークを付加する自主規制は守られていた。

しかし私達は、この当時のお座なり安全策の後には、いずれ再度降り下ろされるであろう“本番ギロチン規制”を予測していた。そのため技術責任者の私は、量産可能で効果的な、改造防止のためのインサート工法の開発をスタートさせたのであった。

当時、妹尾河童さん達の努力が実って、沢山の著名人が寄稿してくれて発行された「モデルガンはなぜ危険なのか」の表紙。続いて黒い表紙の第2号「モデルガンは本当に危険なのか」も出された。


MGCでは、その頃からモデルガン愛好家協会の旗の下に、妹尾河童氏をはじめ、多くの著名愛好家や法律家諸氏が集まり、“モデルガン規制反対の社会運動化プロジェクト”が開始されて、私はその主要メンバーのための技術アドバイザーとして参加するようになる。

そしてモデルガン規制への反対運動は、ボスと河童さんとを軸に日増しに大きくなり、一種の社会運動へと成長していったのだった。

そして私は、この大きなうねりの中で、私の本来の能力を活かせる方法は再度来るであろう次期規制法案の中に、警察庁の技官達が「オウ、これは有効な防止策じゃわい!」と思って参考にしてくれるような“有効な改造防止案“を考案し、これを警察庁に認知させることにこそあると思っていた。

だから改造防止のためのインサート工法については、以前ヒゲコバ回顧録—3に書いたように、1962年末に、バレル内にドリルでは加工できない熱処理鋼材を、ダイキャスト工程で鋳込んでしまうインサート工法からスタートして、翌年にはリボルバーのシリンダー内の薬室に繋がるリング状のシリンダー・インサート工法も加わり、業界をリードする安全工法を確立した。

そして昭和50年頃には、これまでの種々のインサート工法のノウハウをベースに、46年規制で塞がれてしまった金属モデルガンの銃身内に“加工を施せば必ず銃身自体が壊れてしまう究極形ともいえる銃身内インサート”を考案して、MGCの特許とした。

その銃身インサートは、側面にダイキャスト亜鉛が食い付くように凹凸形に段がついた円筒形の、焼き入れ鋼材で、銃口先端からドリル加工された場合、ドリルの刃先が鋼材の尖った形状で滑る形にして、中央部には、超硬工具やスタッドレス・タイヤに打ち込まれている“超硬チップ”が埋め込まれていて、超硬ドリルでも貫通できないように配慮した、なかば“ヤケッパチ的完璧版”の、オーバー・スペックな銃身インサート案を作り、シリンダーのリング・インサートとともに、警察庁に提案した。
これらは当時の赤本等でご覧になった方も多いと思う。

さまざまな経緯を経て「これならドウジャ!」とばかりに作ったヤケッパチのインサート案だったが、総理布令のフタが開いてみたら、ちょっとパクられた気分だが、意外と警察庁さんにも血が通っていたんだなと、私自身はほぼ納得。後は自分達で頑張れば良いんだよ! と自分を奮い立たせた。


本来ならこの特許は、来るべき次期規制に対してMGCが会社の存続を賭けた“虎の子特許”なのだから、他には公開せずに自社の利益に結びつけるのが本筋だ。
しかし、これを業界全社に普及させてしまえば、警察庁もこの案を無視することは出来ないだろうと考え、MGCは、組合員にこの案の採用を提案した。

だが、現実には「MGCにイニシアチブを取られるのは嫌だ」と、採用を渋るメーカーが多く、足並みは揃わず、M社は“超硬材よりも固いセラミック”をインサートしたサンプルを警察庁に提出したのだった。

警察庁では、この両社の案を科警研で、その物性と破壊テストをした結果。セラミックの本質は“セトモノ”であるために、硬度は高いが強度がない。したがって「丹念に叩くとインサートが粉々に砕けてその意味を成さない」という当然の結論が出て、セラミック・インサートは不採用となった。

当時のMGCでは、このバレル・インサート用の超硬チップの採用をきっかけに、MAC11やVP70等の、後のプラスチック・ボディーのブローバック・モデルガンのボルト・インサートに至るまで、種々の形状の超硬インサートに発展したのだった。

この特殊形状の超硬インサートの開発に当たっては、私の家族ぐるみの長い友人であった特殊超鋼の職人のおかげで実現出来たものだった。余談になるが、その彼と私は誕生日が一日違いで、両家の子供も同級生という関係で、毎年一緒の家族旅行をしていた。その超硬材職人の友人は、惜しいことに昨年天国に逝ってしまったのが悔やまれる。

戦後の玩具業界に貢献した人達が、当時の通産省の後押しで、社団法人玩具協会によって表彰された。戦後初めて玩具産業功労者表彰式の受賞者全員の記念写真。受賞者対象者は、岩槻の人間国宝の人形師から、任天堂のソフト開発者まで広範囲に及んだ。最前列左から3人目が私で、最若年受賞者だったらしい。

マブチモーターの馬淵会長と私の二人が頂いた考案栄誉賞の賞状と、最高位を示す紫のリボンが付いたメダル。トイガン関係者では私一人。それ以降、まだトイガン業界業での受賞者はいない。


一方、私が考案したMGCの超硬材入りインサートは、特許の権利を行使しないことを条件にして、警察庁はこれを安全工法の原案として採用。それに従来の外観の色に加え、構造や工法に至るまで詳細に記した安全基準と、構造別に細分類された詳細な規制基準案を作成し、これがその後の52年12月に施行された2回目のモデルガン規制の原案となったのだった。

こうして出来上がったのが、総理布令の別表第二(第十七条の三関係)と呼ばれている条文で、今業界の皆さんが金属モデルガンのモノサシとなっている、いわゆる”総理府令”なのだ。

こんな経緯で出来上がったこの規制案には、モデルガン裁判や愛好家協会の活動等、あらゆる角度からの運動が効果を挙げた結果、タ二オ・アクションのように「引き金とスライドや遊庭が直接連動するもの」という分類、つまり指でスライドを動かす“タニオ・アクション”や、銃身の基部に薬室がないチャンバーレス構造等の、私が過去に創作したトイガン特有の構造は、(玩具特有の構造)として別分類されていたことは、私達の法律と物理構造との両面工作が実った結果であり、今後においてもモデルガンを安全に作って行く上での、大切なセーフティ・バイブルだと信じている。

一方で、GM系などの銃身分離タイプは除外されてしまったが、私自身トイガン・エンジニアとして冷静に考えれば、これは仕方のない事例だと理解している。

当時、モデルガン規制の反対運動に大きな生き甲斐を持って望んでいたMGCのボスに大目玉を食らうから口には出さなかったが、この規制内容については、専門的に見てもなかなかうがった内容分類がなされていて、「警察庁は、私達に良くもここまでの配慮をしてくれ、とても面白い落し所を作ってくれた、まさにこれは“大岡越前の三方損”にも匹敵する名裁き」だと、私自身は思っている。

だから今後これをどう活かすのか、または取り違えてこの業界が消滅の淵に落ちるのかは、解釈する方の、トイガン業界全員の頭の使い方にかかっているのだ。

また、46年規制から52年の2回目の規制までの間には、愛好家協会がモデルガン規制反対を広く社会に認知してもらうための運動の一環として、銀座から国会議事堂までのデモ行進もやったことがあった。当然私も参加。そして私は、若い頃からの余技としてハマッっていた“8ミリ道楽”が役に立ち、規制への矛盾から国会前までのデモの顛末を一本の8ミリ映画に仕上げ、後楽園イベントや店で上映もしたのも、今となっては懐かしい想い出だ。

そんなこんなでアッという間に昭和52年が過ぎ、翌年の53年5月24日、昭和36年から53年までのモデルガンの発展と安全工法に対して、日本玩具協会から最高位の紫のリボンが付いた“考案栄誉賞”を頂いた。
これはそれまでの人生で最も嬉しい出来事であった。

こうして金属モデルガンの全盛期は終わってプラスチック・モデルガン時代となるのだが、その前に52年の規制の前後にかけて、私は当時の日本モデルガン製造協同組合の技術責任者として度々警察庁を訪れ、総理府令に明記されていない不明解な部分の解釈に関するやり取りがなされ、当時の担当技官と一門一答が繰り返されていた。

ところが本稿が進むにつれてその時の内容が、今日のメタルボディーのエアソフトガンやハイブリット素材のモデルガンの解釈に、とても重要な判断基準になることを思い出したため、次回はそれに触れてみたいと思う。

今回から始まる話の内容は、冒頭に書いた現在のエアソフトガンとモデルガンとの間の整合性や解釈の間違いを正す手助けとして、今後の発展のための道しるべになれば嬉しいと思う。

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今回の参考資料:
警視庁URL・モデルガン,エアソフトガンについて / wikipedia「モデルガン」 / yahoo 検索「エアーフトガンのパワー規制」 / yahoo 検索「モデルガン規制」 / Biglobe,ne[日本の武器兵器] / Cobra's hobby「モデルガン規制」 / Welcome to manosun. / STGA 資料 / ASGK 資料 / MGC ヴィジエール 他

小林太三 (こばやし たぞう) 小林太三 (こばやし たぞう)
元MGC副社長、現(有)タニオ・コバ社長。
1936年生まれ。海外にもその名を轟かせるトイガンデザイナー。少年時代の模型趣味からモデルガンメーカーMGC入社。様々な人気モデルガン、エアガンの設計を手掛けたトイガン界の重鎮。

2015/05/08

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