トイガン史 1963 ~ 1993 - あるガンマニアの追憶 -
文 出二夢カズヤ
[第1回] [第2回] [第3回] [第4回] [第5回] [第6回] [第7回] [第8回]
第4回 1983~1984年 シューティングマッチ リアルなエアガンの登場
弾の出ないモデルガンで、ターゲットを撃ち倒す射撃の疑似体験が可能となる、マニアの夢をかなえたシューティングデバイス。1983年にMGCが発表し、後に『RAY・X-203』として発売されたこの画期的な製品は、『シューターワン』と呼称されるようになった。
モデルガンで撃ったターゲットがリアクションするという驚異の発明品、シューターワン。その登場は我々モデルガンマニアに、銃を撃つことの本質的な楽しみを教えてくれた。
その頃には別々の高校に通っていた鉄砲仲間同士だったが、週末はそれぞれに購入したシューターワンを持ち寄り、それまでその雰囲気だけを楽しんでいた、「ホルスターから抜いて、狙って撃つ」という行為を、ストップウォッチまで持ち出して真剣に練習し始めた。もともとGun誌でイチローさんがシューティングマッチを戦う姿に魅せられていた我々である。この新しい遊びに、夢中にならないはずが無かった。
発売直後の1983年9月に、そのシューターワンを使った本格的なシューティングマッチ、『シューターワン チャレンジマッチ』が、MGCの主催により開催されたのも、普及への大きな弾みとなった。今ではとても考えられないことだがそのマッチは、省庁が立ち並ぶ霞ヶ関にほど近い、2018年の今も現存する、日比谷シティ広場において開催されたのである。
18歳になっていた私は、共に練習を重ねた鉄砲仲間二人と誘い合い、このマッチに勇躍参戦。私個人はベスト32止まりに終わったが、仲間の一人が見事に準優勝の座を獲得した。なんと、参加費無料のマッチだというのに、1万5千円(優勝者は3万円)もの賞金が贈られたという大盤振る舞いに驚いたものだったが、翌1984年11月に開催されたジャパンビアンキカップ第1回大会は、商品総額100万円という驚異的な開催規模だった。シューターワンの普及に、MGCがどれだけ力を入れていたかがうかがい知れるだろう。
魅力的な新製品が続々と発売され、ついには全国規模のシューティングマッチが開催されるに至ったこの1983~1984年は、まさにモデルガン全盛期の頂点だったように思う。しかしその裏側では、我々ガンマニアの興味が、エアガンへと移り変わるきっかけとなる出来事が、次々に起きていたのだ。
エアガンについての一番古い記憶は、小学4年生の頃。祖母に買ってもらったマスダヤ製のBSバッファローSS-1から始まっている。ピンク色の「つづみ弾」という専用弾丸を使用する、今で言うコッキング式のエアガンなのだが、当時は無邪気にも「空気銃」と呼んでいたものだ。
ただモデルガンの場合と違い、エアガンに対して夢中になっていたということは無く、せいぜい1~2メートル位の距離での的当てを、たまに楽しんでいた程度だった。今にして思えば、実銃とは大きく異なる玩具然としたデザインに、感情移入し切れなかったのがその原因かもしれない。
マスダヤ製バッファローシリーズに付属していた「つづみ弾」。弾頭部の直径は7mmで、やわらかい樹脂で成型されていた。
そんなエアガンに対する見方が変わったのは、私が中学2年生の時、1979年に、今はAPSシリーズで有名なマルゼンから発売された、日本初の6mmBB弾仕様エアガン。マークスマンガバメントを手に入れてからだった。
日本初のBB弾仕様エアガン、マークスマンガバメント。今の眼で見れば突っ込みどころ満載のフォルムだが、そのサイズが実銃に近いというだけで、当時は充分にリアルさを感じられた。
そのエアガンは、モナカ構造の単発式というちゃちな造りの製品だったが、そのサイズとシルエットが実銃を再現していることが、当時の目には魅力的に映った。ワルサーP38やルガーP08をモチーフとしたエアガンも存在していたのだが、そのサイズやフォルムが、大きくデフォルメされていたからだ。
また、初めて触れるBB弾そのものにも、新鮮な驚きがあった。主に軟質樹脂製だったつづみ弾に対し、硬いプラスチック製のBB弾は、標的に対するインパクトの強さを期待させる佇まいを見せていた。事実、BSバッファローが持ち得なかった、厚手の段ボールを貫通し、ジュース等のアルミ缶を大きくへこませるそのパワーは、標的を破壊するという、銃が持つもうひとつの根源的な魅力に気付かせてくれた。おかげで当時、家中の段ボール箱が穴だらけになったものだ。
マークスマンガバメントと同時期に販売されていたマルゼン製の、おそらくは日本初のBB弾。重さは0.12g程度だろうか。
そして1983年。マルゼンからエアガン史に名を刻む傑作、KG9がリリースされるのだが、高校で知り合った鉄砲好きの友人から見せられるまで、私はその存在を一切気に留めていなかった。
ちなみに、この友人がコンバットマガジンの初代編集長と知り合いだったことから、私の人生は大きく狂って行くのだが、そんな余談はさておき、ある日その友人が、購入したてのKG9を見せてくれた。
マルゼンを業界のトップリーダーに押し上げた傑作エアガン、KG9。画像はスチール製レシーバー搭載のモデルだが、後にABS製レシーバーへと変更された。
まず驚いたのは、従来のエアガンにあった玩具っぽさが無いことだった。実銃のフォルムをきちんと踏襲し、スチールプレス製のアッパーレシーバーを採用することで、モデルガン並みのリアルさを実現。さらにエアガンとしての性能面も、パワーと飛距離が上述のマークスマンガバメントをしのぐという、愛でてよし、撃ってよしの、想像を超える素晴らしい製品だったのだ。
この出会いを境に、私のエアガンに対する価値観は大きく変わったが、モデルガンを超えるほどの魅力は、まだ見出せていなかった。しかしこの1年後には、エアガンのことで頭がいっぱいという状況がやって来る。そのきっかけは、コンバットマガジン1983年5月号に掲載された1本のレポート。かのイチローさんによる「SURVIVOR GAME」という記事であった。
資料協力:MGC 小林太三、マルゼン、稲葉秀雄
[第1回] [第2回] [第3回] [第4回] [第5回] [第6回] [第7回] [第8回]
出二夢カズヤ (でにむ かずや)
1965年6月、埼玉県生まれ。物心ついた時からの鉄砲好き。高校時代に月刊コンバットマガジンの初代編集長と知り合ったのをきっかけに、1985年に比出無カズヤとして、同誌にてライターデビュー。以来1990年代初頭まで、トイガン業界の裏と表を渡り歩く。 ブログ UZI SIX MILLIMETER |
■関連リンク
トイガン偉人伝 永田市郎さんに会ってきた!