[パート1 日本の対空装備] [パート2 観閲行進] [パート3 対空戦闘訓練]
2010年4月29日、昭和の日、千葉県若葉区にある陸上自衛隊 下志津駐屯地にて創設55周年記念行事「つつじ祭り」が開催されたのでレビュー。まずは下志津駐屯地および、日本の防空兵器の歴史について紐解いてみる。
下志津(しもしづ)駐屯地は、昭和29年、習志野駐屯地に創設された高射学校が、翌年の昭和30年(1955年)、旧日本陸軍 下志津陸軍飛行学校の跡地に移住・開設された、陸上自衛隊の駐屯地だ。
高射学校 高射教導隊をはじめ、東部方面後方支援隊 高射教育直接支援中隊、第2高射特科群などが駐屯する。
高射部隊というのは空からの敵の攻撃に対して防衛を行う、いわゆる対空任務。
とくに、千葉県の下志津駐屯地は首都圏の防空任務の役割として非常に重要性が高い位置にある。
陸上自衛隊の高射特科部隊では主に低空驚異である、航空機、精密誘導ミサイル、地形を這うように超低空で飛来する巡航ミサイルなど、近年ますます高性能化する驚異に対処しなければならない。
我が国周辺の国際情勢は、核および弾道ミサイルの開発、後継者問題など朝鮮半島の混迷化、経済成長を背景に軍事力を着々と推進し、我が国周辺海域での活動を活発化させる周辺国の動向など、依然として我が国の平和と安全に対する不安定要因が存在している。
つい先頃、2010年4月25日から26日にかけて、航空自衛隊が新宿御苑にて地対空誘導弾ペトリオットミサイルPAC-3の展開訓練を行ったのもその一つといえるかもしれない。
対空兵器が初めて世に登場したのは、1870~71年の普仏戦争において。
パリを包囲したプロシア軍(ドイツの前身)の名将モルトケが、気球に乗って脱出をはかるパリ市民に対して、急遽クルップ社に小口径の2.5cm砲を作らせ、使用したのが最初と言われる。ただし、初期の対気球砲は射角も移動能力も不十分だったと言うことだ。
その後、第一次世界大戦で複葉機が兵器として実用化されると、ドイツはフランス、ベルギー、ロシアなどから捕獲した7.5cm野砲を改造し、世界で初めて飛行機を目標とした高射砲を完成させる。
我が国においては、大正3年(1914年)、日本が連合国の一員として戦った第一次世界大戦の日独戦役中、ドイツの東アジアにおける拠点、青島(チンタオ:中国山東省)を守備するドイツ飛行隊に対し、陸軍野砲兵第24連隊の野砲2門を臨時高射砲隊として編成した。
この38式 野砲応用臨時高射砲は、7.5cm野砲の車輪に三角形の台をつけ、上を向けて撃つ原始的高射砲で、大きな戦果はなかったが、この時期に専科を発足したというのは注目に値する。
その後、海軍では航空機による艦船攻撃を防御するため、3インチ砲を改良した3年式 8cm高射砲、10年式 12cm高射砲を開発。陸軍も第一次世界大戦後、急速に発展する航空機に対応するため、88式 7.5cm野戦高射砲を昭和3年(1928年)に制式とし、列強なみの戦力を有するようになった。
昭和8年(1933年)には、対空・対地両方に使用できる、93式 13.2mm重機関銃を陸軍が開発、後に海軍でも使用される。
昭和13年(1938年)には昭和14年のノモンハン事件以降、戦後まで、陸軍唯一の高射機関砲となる98式 20mm高射機関砲を制式化する。
一方で、航空機は第二次世界大戦に入るとさらなる進化を遂げる。高度1万メートル以上で本土に飛来するB-29を迎撃するため、陸軍は昭和18年に三式 12cm高射砲を、昭和20年(1945年)には、五式 15cm高射砲を完成させる。
五式 15cm高射砲はドイツ・テレフンケン社の対空射撃用測距装置ウルツブルグ・レーダーと連動して、重量50kgの砲弾を最大射高 約20,000mまで到達させる能力があり、砲弾が上空で炸裂すると200m四方の敵機を撃墜させる威力があったという。
この五式 15cm高射砲は東京近郊の久我山にある高射砲陣地に2門配置された。その威力はすさまじく、一度の射撃で大打撃を与えたので、二度とこの上空に敵機は現れなかったという逸話もあるほど。
しかしながら、この五式 15cm高射砲は結局2門しか作られずに終戦を迎えることになる。
写真出展:Wikipedia
戦後の昭和27年(1952年)、朝鮮戦争が激化すると、自衛隊の前身である警察予備隊改め保安隊に、米軍よりM16型対空自走砲車、M55型多連装銃架が供与される。M16型対空自走砲車はM3半装軌車(ハーフトラック)に12.7mmM2重機関銃4銃を取り付けたM45型多連装銃架を搭載した自走砲車で、M55は同M45型を2 1/2tトラックで運搬利用する4連装高射機関銃だ。この他にも37mm自走高射機関砲 M15A1も同時期に供与された。
昭和31年(1956年)には近代高射砲である90mm高射砲 M1が制式化され、北海道千歳の第1高射特科群 第118特科大隊に配備される。90mm高射砲 M1は信管付き20.1kgの砲弾を初速824m/sで撃ち出し、有効射程は12,500m。砲身後座を利用した自動装填により毎分22発の連射速度で射撃可能。
左の写真は90mm高射榴弾の破片で、1g以下から100g以上まで大小約958個が空中で炸裂飛散し航空機にダメージを与える。
昭和30年代には、米陸軍のM24チャーフィー戦車の車体をベースに、スウェーデンのボフォース社製40mm対空機関砲を2連装にし搭載したM19A1自走高射機関砲が、また昭和36年(1961年)にはM41ウォーカー・ブルドッグ戦車の車体に変更されたM42自走高射機関砲、愛称「ダスター(掃除人)」が第7師団第7特科連隊第5大隊に22輌配備された。
昭和33年(1958年)には米陸軍の開発した75mm高射砲 M51、愛称「スカイスイーパー」が供与される。射撃用レーダーを含む射撃統制装置(M38)を備え、自動給弾装置により、重量9.9kgの弾丸22発を毎分45発で連続発射できる。移動時は脚を折りたたみ、M8牽引車で牽引する。
主として後方の重要施設や飛行場の直接援護に運用され、ホーク、L-90が装備化されるまで高射部隊の花形として活躍した。
昭和44年(1969年)には、35mm 二連装高射機関砲 L-90を配備する。L-90はM15、M16対空自走砲の損耗更新として採用され、スイスのエリコン社により開発され、技術提携により国産化された高射砲。エリコンKDB 35mm機関砲と、レーダー制御の射撃統制装置によって構成される。射統装置のレーダーは低空目標の発見が容易で、目標を自動追尾できる。発射速度は毎分1100発、俯仰-5~+92度となる。
1960~70年代に入ると、自衛隊の対空装備の電子化により、従来の高射砲に代わる位置づけとして、ミサイルシステムによる対空装備が導入されるようになる。
昭和40年(1965年)には中・低高度で侵入する航空機に対し、レーダーで目標を捕らえ、その反射電波を利用して自ら目標に飛んでいくホーミング方式である、地対空誘導弾ホークが導入される。
このホークは昭和52年(1977年)度から逐次改良ホークへ換装され、さらに昭和57年(1982年)度からは改良ホークの改善I型、また昭和61年(1986年)度からはI型よりもECCM(対電子妨害)能力と信頼性の向上を目指した改善II型へ、さらに平成3年(1991年)度から逐次改善III型へ換装され、2010年現在も使用されている息の長い装備だ。
また、航空自衛隊では昭和45(1970年)より、中高高度空域において進入する航空機に対し、地上からの電波指令によりミサイルを誘導し撃破する指令誘導方式の地対空ミサイルシステムであるナイキJを導入する。
このナイキJは米国製のナイキ・ハーキュリーズ地対空ミサイルが三菱重工業によってライセンス生産されたもので、平成6年(1994年)まで運用された。
さて、そして時は現代、陸上自衛隊の現用対空装備を拝むことができる観閲行進へと続く。
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