火縄銃の諸問題
其の一「玉込め」
火縄銃の玉込めは手順が多く時間がかかった。銃口より玉薬と弾丸を入れ、さく杖で突いて発射準備にかかる。
個人差はあるが概ね1分間に2発撃つのがやっとだった。
玉込めの手間を省くため予め計量した火薬と弾丸を容器につめる方法を考え出した。
紙や竹、または木製の容器につめたものを「早合」といった現代の薬莢のようなものだ。
「早合」が開発されたのは、日本では16世紀の中頃、西洋ではそれ以前には既に存在していたと言われている。何れも発明者は不明。必要は発明の母!と言ったところだろう。
早合での発射手順
早合の蓋を外して火薬と弾丸を一気に流し入れる。
火薬と弾丸を入れたらさく杖で突くか、火縄銃の銃床を地面に一度打ちつけることで、さく杖で突くのと同じ効果を得られた。
早合を入れるための「胴乱」
若しくは縄に早合を吊るして肩から襷がけにして携帯した。
16世紀の日本の鉄砲足軽と西洋の銃兵
東洋西洋の違いはあるが、スタイルは殆ど変わらない。ただ西洋の銃兵は襷早合と射撃時に銃を支える「フールキーヌ」という支柱を持つ。
其の二「雨の問題」
火縄銃は火縄を使用しているので水気と風が弱点。雨が降ったり風が吹けば、火縄の火が消えたり火皿の火薬が湿気たり、飛ばされたりして射撃が出来なかった。そこで火縄と火皿部分をすっぽりと覆う「雨覆い」が開発された。
火縄銃が戦国大名の間で使用され始めた当初、入手方法は全て海外からの輸入に頼っていた。そんな訳で火縄銃1挺が目が飛び出すほどの高価な代物だった。
大量装備できなかったため初期の運用方法は、音での威嚇や狙撃に使用された。
少数装備では効果は薄い!大量装備しなければ意味がない!!
各地の諸勢力は、高価な輸入品を購入するより自分達で量産することを考えた。
16世紀中頃各地で火縄銃の量産が開始される。
特に堺・根来・雑賀・国友・日野は日本でも有数の鉄砲生産国となった。
鉄砲は製造方法さえわかれば街や村の野鍛冶(鍬や鎌等を作る鍛冶師)でも作ることは可能だ。あとは各部分の製造分担と量産体制を考えるだけだ。
大量に生産された火縄銃は各勢力で使用された。
特に火縄銃の産地となった根来・雑賀では量産された火縄銃を装備し、各地の勢力に鉄砲隊を派遣する傭兵業を生業としていた。
其の四 三段撃ち「長篠設楽ヶ原の戦い」の謎
1575年6月29日に行われた「長篠設楽ヶ原の戦い」は武田騎馬隊を織田・徳川連合軍が3000挺の火縄銃を三段撃ちで撃退したとある。
三段撃ちは「玉込め」「準備」「射撃」と三段に役割を分け、交互に射撃する方法で織田信長が考案したといわれている。三段撃ちは、騎馬隊の足を止める三段の馬防柵が、後年なにかの形で間違って伝わったのではないかな?現在の発掘調査で、設楽ヶ原古戦場跡からは僅か数個の弾丸しか出土していない。
だが、現在では鉄砲三段撃ちは行われておらず馬防柵に足止めを喰らった武田軍が織田・徳川連合軍の一斉射撃で蹴散らされ、這う這うの体で退却してたのではないかと考えられている。
こうして伝来した火縄銃は瞬く間に日本中に拡がり量産体制が布かれ、運用面が確立されました。その影響は旧来の戦術・築城術等あらゆるものを一変していきました。
その後1600年9月の「関ヶ原の戦い」時に使用された火縄銃の数は、当時の全世界の三分の一という驚異的数だったと言われています。日本は火縄銃伝来を契機に中世から近世へと生まれ変わった、と言えるかもしれませんね!
では今回はこの辺で!!
■イラストレーター紹介
ALFRED少尉(あるふれっどしょうい) 1970年代8月、新潟生まれ。漫画・イラスト制作者。 現在カバネット株式会社:Webサイト「漫画の新聞」にて月1で2P漫画連載中。 過去の作品:ゴマブックス刊:「イケメン 戦国武将・忠義編」「イケメン戦国武将・主従編」 劇団「グーフィー&メリーゴーランド」主催舞台「JUDY~The Great Unknown Squadron~」のパンフレット内イラスト「零戦」作成&舞台の時代考証も担当。高知県の地域おこしボランティア:戦国武将「明石掃部」作成 pixivの作品集はこちら |