『日本軍と軍用車両─戦争マネジメントの失敗』
林譲治著 A5判344ページ 定価2500円+税(並木書房)
日本陸軍は歩兵師団をはじめとする諸兵科の機械化に熱心であった。海外事情にも通じており、たとえば戦車でも列強に劣らない火力と装甲を重視していた。その一方で、兵站は最後まで軍馬中心であり、数少ない自動車は故障で苦労したという証言も少なくない。この矛盾はどこから生じるのか? 関係する資料を読み解くと、日華事変から終戦までの師団数の急増と根こそぎ動員に原因があることがわかる。大本営レベルの戦争マネジメントの失敗が、自動車不足と稼働率低下を招き、最前線の将兵がそのツケを血と汗で払うことになったのである。
これまで日本軍は精神主義一辺倒で、装備の機械化は軽視されていたと批判されてきましたが、事実は大きく異なります。
確かに日本陸軍の主力となる九七式中戦車の生産が始まった当時、日本の自動車産業も量産化を開始したという状況で、商用車と軍用車両を同時に製造するのは、産業基盤(インフラ)の後れから大変な苦労がありました。しかし、日本陸軍が自動車などの機械化導入に関して研究を始めたのは早く、日本陸軍は機械化に熱心な軍隊であり、戦車についても諸外国の軍隊に勝る火力と装甲を重視し、決して精神力一辺倒ではありませんでした。
問題は兵站にありました。もし日本が日華事変を短期間に終了させ、師団数の膨張がなければ、日本陸軍は全師団の自動車化を成功させることは可能でした。少なくとも自動車生産能力は、それを可能とするだけのポテンシャルがありました。
しかし、部隊の急増により、自動車隊の将兵の知識・経験は不十分になり、適切な自動車の運用ができなくなっていきました。さらに「根こそぎ動員」により自動車需要の増大に供給が追いつかなくなりました。
人材育成と兵站の裏付けを欠いたまま、短期間で部隊編成を急いだことが、自動車の型式の混在を招き、それが稼働率を低下させました。稼働率の悪化は前線での補給部品や燃料の入手を困難にし、それがまた稼働率を下げるという悪循環に陥ったのです。
人材育成も含めて兵站が機能していたならば、マレー作戦の日本軍のように高い水準で作戦が可能でした。大本営レベルの戦争マネジメントの失敗が、自動車不足と稼働率低下を招き、最前線の将兵がそのツケを血と汗で払うことになったのです。
著者のことば
島国である日本が外征部隊に対して兵站輸送を行なうにあたり、大きく二つの段階に分けられる。
それは日本から船舶・鉄道を用いて大本営や方面軍などが管轄する領域における、いわば「戦略的な兵站輸送」と、師団が担当する前線までの領域、つまり「戦術的な兵站輸送」の二つである。
この二つの分水嶺となるのが兵站末地であり、自動車による兵站輸送が活躍するのも主としてこの領域になる。今風に言えば、「ロジスティクスのラスト一マイル」の担い手である。
日本陸軍の輜重兵部隊は、多くが馬による動物輜重に依存していたことは知られている。アメリカ軍やイギリス軍がトラックを自在に操るなかで、日本軍は馬匹で物資を輸送し、時には人力で運んでいた。
それは確かに事実ではあるのだが、だから「日本軍は精神主義一辺倒で機械力に理解がなかった」と結論するのはいささか早計である。
事実関係をみれば、日本陸軍は欧米諸国とほぼ同時期に自動車の研究を始めている。工業基盤の遅れから、自動車の国産化や量産化には時間を必要としたものの、構想レベルでは諸外国に劣っていたわけではない。
たとえば、とかく非力な存在として槍玉に上がる九七式中戦車にしても、開発時の要求仕様は十分に満たしていた。さらに言えば、同時期の世界の戦車と比較すれば三七ミリが主力の中で、五七ミリ砲を搭載するなど(歩兵直協のためではあったが)火力重視の思想も読み取れるのである。
また、運動戦を重視する立場から、歩兵師団の自動車化にも日本陸軍は熱心であり、生産力の範囲で着実に自動車導入が進められてきた。
一つの転機は満洲事変とそれに続く熱河作戦であった。満洲事変で日本陸軍は初めて大規模な自動車運用を経験した。さらに熱河作戦により、自動車の可能性を学ぶこととなった。
満洲事変の経験により日本陸軍の自動車政策は一つの転機を迎える。ここでのキーマンは伊藤久雄輜重兵大尉である。彼は陸軍自動車学校を経て、一九三二年から三九年まで陸軍省整備局動員課に勤めていた人物である。
彼は満洲事変でフォード・シボレークラスの自動車が活躍したことから、後方の兵站輸送をこうした量産に適した大衆車に委ね、前線はディーゼルエンジンを備えた重量級の軍用車が担うという、自動車の棲み分けを提案している。
この提案による大衆車クラスの量産はのちの自動車製造事業法にて実現することになる。
伊藤輜重兵大尉と並んで日本陸軍の機械化を語るうえで忘れてはならないのが吉田悳騎兵監であろう。彼は機甲軍創設の立役者でもあるが、重要なのは彼が機械化部隊を必要とするその理由にある。
一九四〇(昭和一五)年一〇月、吉田騎兵監は『装甲兵団ト帝国ノ陸上軍備』を発表する。この中で彼は、一国の人口問題から軍の機械化を説く。一国の人口は一朝一夕には増えない。そして工業社会の戦争だからこそ、軍事力を下支えする工業を維持するための労働人口は減らせない。ゆえに戦場に無闇に兵力を送ることは労働人口を減らし、戦力低下につながる。したがって限られた兵力で高い戦闘力を維持するには軍の機械化を行なうよりない。
この吉田騎兵監の提言は、諸外国に比較して労働生産性の低さが問題となる今日の日本においても傾聴に値する意見だろう。
このように日本陸軍の自動車化・機械化への関心は高く、決して精神力一辺倒ではなかった。
だが一方で、日本軍の兵站は動物輜重中心であり、数少ない自動車についても故障で苦労したという証言には枚挙に暇がない。
この矛盾はどこから生じるのか? 本書の目的もこの矛盾について考える点にある。
一つ言えるのは、日華事変から終戦までの師団数の急増と根こそぎ動員こそが、諸悪の根源であったということである。
日本陸軍の優位は、基礎教育の普及を背景とした将兵の教育・訓練水準の高さにあった。しかし、根こそぎ動員でそれが実現不可能となった時、自動車一つ満足に運用できない事態に陥ったのである。
目 次
はじめに 1
第一章 日本軍と自動車産業 9
発明家の時代 9
自動車産業の黎明/日本最初の自動車メーカー
軍用自動車の研究開発と自動車産業の誕生 13
軍馬の数と質の不足/国産軍用車の第一号
輸入から国産化へ 20
自動車メーカーの誕生
国家による自動車産業の育成 24
陸軍の試算と思惑
アメリカ自動車産業の進出 28
欧米の自動車産業発達の背景/世界をリードしたアメリカ
アメリカメーカーの日本進出 33
自動車輸入の拡大/フォード、GM日本上陸
商工省標準型式自動車とその周辺 38
軍用車は輸入か国産か?
標準車の誕生 40
国産振興委員会の答申/標準車量産の不振と課題/陸軍の求める軍用車
自動車製造事業法とその周辺 48
一九三〇年代の自動車の分類/満洲事変での自動車運用実績/日産と豊田の登場
国産車量産に向けた法整備 58
自動車製造事業法の目的/経済、産業の戦時体制への移行
戦時体制下の自動車生産 62
自動車の需要供給の統制/戦争長期化の影響
第二章 日本軍の軍用車両 68
ディーゼル車とガソリン車 68
戦時下のメーカー統廃合
自動貨車 71
ちよだ、スミダ六輪自動貨車/九四式六輪自動貨車/九七式四輪自動貨車/一式四輪・六輪自動貨車/日産80型・180型トラック/トヨタGBトラック・KBトラック/戦時規格型トラック─180N・KC型/フォード、シボレーのトラック
火砲の牽引車 94
黎明期の牽引車/九二式五トン牽引車/九二式八トン牽引車/九四式四トン牽引車/九五式一三トン牽引車/九八式四トン牽引車/九八式六トン牽引車/牽引自動貨車
戦車および装軌車両、装甲車両 113
日本陸軍の機甲化構想/輸入戦車/八九式中戦車/九二式重装甲車/九四式軽装甲車・九七式軽装甲車/九五式軽戦車/九七式中戦車/一式中戦車/一式砲戦車/三式中戦車以降/装甲車/装甲兵車
乗用車と小型車 169
戦前、戦時期の小型車生産/乗用車/自転車/オートバイ/三輪自動車
第三章 日本陸軍機械化への道 195
馬匹から自動車へ 195
常設されなかった機械化部隊/動物輜重の実態
自動車隊の黎明期 200
青島攻略─初の自動車運用/自動車隊の創設/シベリア出兵─自動車の本格的実戦投入/第一、第二自動車隊の編制/陸軍自動車学校の創設/戦力近代化と騎兵の役割
陸軍の自動車化の進展 220
満洲事変で増強される自動車隊/上海事変の戦車部隊運用/熱河作戦の兵站・輸送計画/川原挺進隊の突進/百武戦車隊の戦果と教訓/独立混成第一旅団の新編
第四章 日本陸軍機械化部隊の興亡 243
陸軍の自動車運用の実際 243
兵站輸送での自動車運用/自動車隊の指揮統制/連絡・調整の手段と方法/砲兵部隊との連携と要領
自動車部隊の拡充 264
日華事変と自動車隊の改編/輜重兵科の自動車化とその限界/騎兵機械化への改編と問題点
ノモンハン事件の敗北と教訓 278
日本陸軍が遭遇した初の近代戦/ノモンハン戦の兵站と自動車運用/ソ連軍の機動力、火力に圧倒された日本軍/戦車部隊の改編・新編/機甲兵科の創設と部隊整備
陸軍機械化部隊の太平洋戦争 300
マレー作戦─日本陸軍の電撃戦/「電撃戦」の実相と生かされなかった教訓/兵站輸送と自動車の活躍/有効活用できなかった機甲戦力
大陸打通作戦 318
京漢作戦・湘桂作戦の企図と目的/主要作戦部隊の戦力とその実情/困難続きの兵站線の維持/兵器行政における日本陸海軍の不作為/故障を招いた背景と要因/終始つきまとった整備の問題
主な参考文献 340
おわりに 342
林譲治(はやし・じょうじ)
1962年2月、北海道生まれ。SF作家。臨床検査技師を経て、1995年『大日本帝国欧州電撃作戦』(共著)で作家デビュー。2000年以降は『ウロボロスの波動』『ストリンガーの沈黙』と続く《AADD》シリーズをはじめ、『記憶汚染』『進化の設計者』などを発表。最新刊は『星系出雲の兵站』(以上、早川書房刊)。家族は妻および猫のコタロウ。