パパ・ゼップと部下から慕われた「ディートリヒ・ヨーセフゼップ、SS上級大将」

Sepp_Dietrich彼は1892年5月28日、シュヴァーベンのハワンゲンに生まれた。父親は荷造り人夫頭で、彼は6人兄弟の長男だった。第一次大戦で弟二人は戦死している。

1906年ディートリヒは小学校を卒業すると、トラクター運転手として働くようになった。その後、ワンダーフォーゲルに参加、近隣諸国を旅しながらホテルマンとして働いた。スイスのチューリヒではホテルマンの資格を取得している。

その後帰国し、ミュンヘンでは肉屋で働くようになった。1911年10月18日にはバイエルン陸軍に入隊し、第4砲兵連隊に配属された。しかし、すぐに落馬で大怪我をして同年11月27日には早くも除隊している。その後はケンプテンのパン屋で働いていた。

第一次大戦ではバイエルンの第7砲兵連隊に入隊した。その後、西部戦線で戦った。

1915年1月にはゾントフォフェンの砲兵学校において下士官の訓練を受け、2月には戦線に復帰した。春にはソンムで頭部に重傷を負う。1917年11月17日には2級鉄十字章を受章した。更に1918年には1級鉄十字章を受章している。

ドイツ敗戦後も軍隊に残ったが、1919年3月26日には退役した。彼の最終階級は曹長だった。

除隊後は1919年10月にバイエルンのミュンヘンに戻り、バイエルンの地方警察に入隊した。1924年には警察大尉に昇進したが、1927年には退官している。その後、

無職になり給仕などで生活を凌いでいたが、ヒトラーと出合ったことから1928年5月5日に親衛隊に入隊した。(入隊番号1177)。

当時ナチスはまだ280人規模の小さな団体であり、ヒムラーもまだ親衛隊は全国規模になっておらず、ディートリヒは元警察官というもあり、その昇進は以上に早かった。

1928年には第一親衛隊連隊「ミュンヘン」が編成され、翌29年には第一親衛隊連隊の上部機関である親衛隊旅団「バイエルン」が編成され、その指導者に昇進した。

1930年10月にはバイエルン州選出のナチス等の国会議員となる。1931年にはブラウンシュヴァイクに本部を置く第4親衛隊地区の初代指導者に短期間だが選出された。

1932年2月にはアドルフ・ヒトラーの護衛部隊である、親衛隊コマンド「デア・フューラーの指導者に就任した。

ナチスは政権掌握後の1933年3月17日にヒトラーの護衛部隊である「ライプシュタンダルテ」を創設した。120名から成る選抜された親衛隊員からなり、親衛隊司令部衛生隊「ベルリン」の創設を命じた。

それは後に1934年4月13日には「ライプシュタンダルテ(親衛旗)SS・アドルフ・ヒトラー」以下「LAH」の名称が与えられ、ディートリヒがその代表となった。この部隊は軍ではなく、ヒトラー個人にのみ忠誠を誓うというものであった。

1934年6月30日の突撃隊(SA)の粛清「長いナイフの夜」では逮捕した突撃隊の処刑の指揮を執るはずだったが、遅刻し、ヒトラーに激怒されている。ディートリヒはそこで6名のSA隊員を射殺している。

1936年のラインラント進駐にはライプシュタンダルテが参加している。

第二次大戦は始まると、LAH連隊は南方軍集団に属して参加した。LAHは国防軍よりも過酷な任務を押し付けられながらも奮戦し、ディートリヒは1級、2級鉄十字章を受章している。

だが、他の部隊からは良い評判はなく、ディートリヒは戦時に指揮官の素養がなく、兵士等もただ弾丸を撃ちっぱなしだと酷評されている。

フランス戦線では1940年。フランス戦では第一SS戦車戦車隊の指揮を執った。7月5日には戦功により騎士十次章を受章した。また、1940年11月19日に武装親衛隊大将に昇進した。LAH連隊の規模が拡大するに伴って、旅団長、師団長を歴任した。

ディートリヒは粗野で口が悪く、気性が荒いことで知られていた。高級将校の教育を受けないまま、続く1941年6月から始まった独ソ線ではバルカン半島に出兵し、同様に指揮を執って武装SSの存在を強く印象付けた。1942年4月20日高級武装親衛隊大将に昇進している。

1943年1月に第6軍が「スターリング・ラード」の全滅によるソ連軍の大反抗が予想されており、親衛隊装甲軍団が編成され、パウル・ハウサーが指揮を執った。LAHも1943年1月には東部戦線に戻り、その配下となった。

2月になるとハリコフ攻防戦が実施され、ハウサーの名指揮や優秀な部下の勇戦に支えられて、ソ連軍第52師団を壊滅した。この戦功によりディートリヒは1943年3月14日に柏葉剣付騎士鉄十字章をした。

1943年7月、クルスクの戦いに参加し、LAHは奮戦したが、部隊の消耗も激しく東部戦線を離れて、イタリア軍の武装解除にあたった。その後LAHの師団長を離れ、新たに新設された第1SS装甲軍団の軍団長となる。

1944年には第6装甲軍司令官に就任する。1944年6月にはノルマンディ上陸作戦が始まり、ディートリヒはカーンでの防衛戦では、英軍の進撃を8月まで止めた。その戦功で8月6日に柏葉剣付ダイヤモンド騎士十字章を受章した。

1944年9月にはドイツ最後の反抗作戦「バルジの戦い」では第SS装甲軍の指揮官に任命される。反抗作戦は失敗。その後ウィーン防衛に向かうが、ソ連軍の猛攻の前に敗れ去った。第6SS装甲軍団は迫り来るソ連軍から逃げ切り、アメリカ軍に1945年5月9日に降伏した。

1945年のドイツ敗戦では連合国の捕虜となり25年の刑を宣告されるが、わずか10年で釈放されている。だが、西ドイツでは1934年にSAの虐殺の罪を問われて有罪となり、入獄され1966年にルドヴィクベルクで死亡したが、彼の部下からの人望は厚く、多くの兵士達から「パパ、ゼップ」の愛称で呼ばれていた。

また、彼の葬式にはドイツ以外から、オーストリア、オランダ、フィンランドなどから4000人を超える元武装親衛隊兵士が含まれていたという。また、ヒトラーとは唯一対等に口を聞くことが出来る数少ない将校であった。

(藤原真)