武装SSの荒武者「パウル、ハウサーSS上級大将」

Paul_Hausser彼は1880年、プロイセン帝国のブランデンブルクのハーフェルに生まれた。父と同じく軍人を目指し、1892年にケスリンにある士官学校に入学した。1896年にベルリンにあるプロイセン王国高級士官学校移り、1899年まで在学した。

1899年に少尉に昇進すると、プロイセン第155歩兵連隊に入営した。第一次大戦では第109歩兵連隊の参謀将校として勤務し、西部戦線やルーマニアなどで戦った。

敗戦後もワイマール共和国陸軍に残り、1921年から1923年の間、第二師団参謀を務め、1927年から1930年には第10歩兵連隊の連隊長に就任。1931年2月には少将に昇進した。

1932年1月31日に退役すると共に、名誉階級中将の階級が送られた。

その後、国粋的軍人団体「鉄兜団」に加入し、ブランデンブルクの地方指導者を務めた。

同団体が、SAと統合されると、SA大佐に就任した。

その後、6月30日に突撃隊幹部の粛清後、

第一次大戦で戦友だったパウル・シャルフェから、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーを紹介されると、ヒムラーが親衛隊内部に武装部隊を育成しようとという思惑もあり、親衛隊に勧誘されて1934年11月15日に親衛隊に入隊した。隊員番号(239795)。

ハウサーは親衛隊戦闘部隊「SS―VT」の編成に尽力した。同年12月14日は親衛隊予備隊とライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラーの二つが統合されて、武装親衛隊の前身である「SS―VT」が編成されたが、それにはハウサーが中心的役割を果たした。各地の予備隊を「ゲルマニア」と「フォウチュラント」の2個連隊に集約した。

また、ハウサーは兵士達に親衛隊特務部隊の教育を行い、兵士達を実戦に出せるレベルに引き上げた。

特務部隊の前身予備隊である親衛隊の地区に属していたこともあり、親衛隊地区司令官との間に特務部隊の指揮権の争いが起こった。ライピシュタンダルテ司令官のヨーゼフ・ディートリヒも独自の指揮権を主張し、ハウサーの指揮権を拒絶していたが、次第にハウサーの隊員との錬度の差がでてくると、ディートリヒもハウサーの方式を取り入れるようになった。

1939年には後の「第2SS装甲師団ダス・ライヒ」師団長となった。当初この師団には国防軍兵士も参加しており、武装SSとの混成師団であった。

1940年には対フランス戦に参加した。B集団に属してオランダへ侵攻している。侵攻後「第2SS師団ダス・ライヒ」と改名してバルカン半島に進出し、バルカン半島へ進出し、ベオグラードを陥落している。

翌1941年の独ソ戦に参加ハインツ・グーデリアン将軍の第二装甲集団に所属する。

バルカン半島作戦を経て、主に東部戦線で戦った。ハウサーはドイツ軍の先鋒としてモスクワ攻撃に参観するが、作戦は失敗した。

だが、ハウサーは親衛隊大将に昇級し、親衛隊大将となり、1941年8月8日には騎士鉄十字章を受章した。

しかし、右目を負傷して失明し、1年間戦場を離れた。

1942年ハウサーはSS装甲軍団司令官に就任した。これは「アドルフヒトラー師団」「ダスライヒ師団」「トーテンコプフ師団」「ヴィーキング師団」の4個SS師団まとめたものであった。

ハウザー軍団はハリコフの守備につくが、スターリングの第6軍がソ連に降伏すると、ソ連軍はハウサーの軍隊にも迫った。しかし、ヒトラーはハウサーに死守命令を送る。

だが、ハウサーは独断で1943年2月15日全滅を待つよりも退却をおこなった。ヒトラーが激怒したが、最終的に、彼の決断の正しさが証明されている。

1943年7月28には東部戦線における功績から柏葉騎士鉄十字章を受章した。

1944にはSS軍団は改編されて、第二SS装甲司令官に任命された。

前任のフリードリ・ドルマン大将が自殺をしたため、国防軍を信用していなかったヒトラーに第7軍司令官に抜擢された。しかし、最後まで指揮を執っていた為、連合軍に包囲された俗にファレーズの地獄と呼ばれた包囲網の脱出を指揮した。

しかし、その際最後まで指揮を執っていたため、銃撃で重傷を負った。

1944年8月26日には、これらの優れた功績によって「剣付柏葉騎士十字章」を受章している。階級も親衛隊上級大将に進んだ。

1945年1月28日にはG軍集団司令官に就任したが、4月には解任されている。4月30、ヒトラーは自殺したが、解任されているものの、西部戦線のドイツ軍の降伏を指揮した。戦後は旧武装SS親衛隊員相互扶助協会の運動に参加している。

1948年までアメリカ軍の捕虜収容所に抑留されていた。ニュルンベルク裁判では、武装親衛隊は正規の軍隊と同じと主張した。ハウサーは武装親衛隊が多国籍軍隊だと主張した。当時は冷戦もあり、彼の意見は取り入れられた。1966年には回顧録「武装親衛隊の兵士は他の兵士達と全く同じ」を著した。

1972年ルートヴィヒスブルクで亡くなった。

(藤原真)