不運の名将「ギュンター・フォン・クルーゲ元帥」

Hans_Günther_v彼は1882年10月30日にプロイセンのブリューゲンに生まれた。父親も軍人である。父の名はマックス・クルーゲ少将で父は1913年に世襲貴族に召され「フォン」を名乗った。

士官学校時代、彼の能力はずば抜けていたと言われ、旧友達からは「利口なハンス」と呼ばれた。ハンスとはグリム童話から取られたものであり、後に役所に正式に登録している。

第一次大戦では陸軍大尉参謀として、ベルダン攻略戦に参加。ドイツ敗戦後はベルサイユ条約により10万に縮小されたドイツ軍に留められ、ドイツ軍の再建に尽力した。1930年には大佐、1933年には少将、1936年には砲兵大将と彼の能力の高さから、出世も異常なほどに早かった。

第二次大戦が勃発すると、彼は第4軍の司令官として1939年のポーランド戦に従軍する。1940年に開始されたフランス戦ではゲルト・フォン・ルントシュテット元帥の下、第4軍を率いてアルデンヌの森を走破し、フランス軍を撃破した。また、彼の指揮下にはロンメル将軍がいた。

ドイツ軍の余りの早い進撃に後にこれらの作戦を電撃戦と呼ばれた。彼はこの戦功によって同年7月に元帥に昇進した。

1941年の独ソ線「バルバロッサ作戦」では第4軍を率いてモスクワ目指して進撃したが、思わぬ敵の抵抗と、スモレンスク攻略に手間取り、ドイツ軍の進撃は大きく送れてしまった。モスクワ進撃は10月に開始されたが,予定よりも大きく遅れてしまい、モスクワにたどり着く前にソ連は「泥濘期」が始まり、作戦は一時中断された。

やがてドイツ軍の攻撃は11月15日に開始されたが、逆にドイツ軍は消耗しており、12月5日頃には逆にソ連軍に反撃され、ソ連軍はドイツ軍を12月13日に撃退したとの声明を出し、事実上1941年のモスクワ侵攻は失敗した。

ドイツ軍ではフェードア・フォン・ボック元帥が解任され、中央軍集団の指揮を執るが、第4軍司令官当時にグーデリアンの第2装甲集団の補給をする立場にあったが、両者は作戦指導を巡って対立、クルーゲが中央軍集団の指揮を執ると更に関係は悪化した。その後グーデリアンは解任されるが、1943年にグーデリアンが装甲兵総監となって、軍に復帰すると、両者は決闘騒ぎを起こすほどだったと言う。

1943年1月18日に柏葉騎士十字章、1943年10月29日には剣付き柏葉騎士十字章を受章したが、同月に交通事故を起こし重傷を負うと、中央軍中央司令官の地位をエルンスト・ブッシュと交代した。1944年7月に傷が癒えるとルント・シュテットの後任として、西方軍司令官に着任し、ロンメルが重傷を負うとB軍集団司令官も兼務した。

その頃、ドイツ軍将校内部では、ヒトラー暗殺計画が練られていた。首謀者の1人ヘニング・フォン・トレシュコー少将は中央軍集団で彼の主席作戦参謀を勤めていた。クルーゲはそのことを知っていたが、計画に関わることはなかった。

1944年7月20日にクラウス・フォン・シュタインベルク大佐による暗殺計画が失敗した後には、反ヒトラー勢力とは距離を置いて保った。

その後も西方軍集団に留まったがヒトラーとノルマンディにおける作戦でぶつかり、更にゲシュタポなどからヒトラー暗殺計画に加担した疑惑を持たれた。

8月17日に西方軍司令官を更迭され、その後、ベルリンへ召還途中に車内で1944年8月19日に青酸カリを飲んで自決した。

彼はヒトラーへの遺書を残しており、戦争の早期終結とヒトラーへの揺るがない忠誠心が書かれていたと言う。

9月1日に軍隊礼をもって葬られた。

(藤原真)

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