グーデリアンは1884年6月17日、プロイセンのクルムに生まれた。
カールスルーエの陸軍幼年学校卒業後、陸軍のベルリン仕官学校に入学した。
第一次大戦時は陸軍参謀部の一員として、コプレンツ第3電子大隊に勤務した。その際彼は無線技術を習得した。
ドイツの敗戦後は「ベルサイユ条約」によってドイツ軍は戦車、飛行機、潜水艦の所有を禁じられ、その兵力も10万まで削減された。彼は陸軍に残り、兵務局に設けられた電信技術、鉄道輸送、自動車輸送を管轄する交通兵監部で勤務した。
この頃からグーデリアンは機械化された歩兵や砲兵に支援された装甲部隊の創設を唱え始め、研究に専念した。それはイギリスの戦術家バジル・リデル・ハート大尉やJ,F,C,フラー大佐の主張にも影響を受け、自らの戦術理論をまとめたが、当時の保守的な軍人達に受け入れられることはなかった。
それでも彼は独ソ秘密軍事協力に基づき、ロシア奥地において、ベニア板で作られた張りぼての戦車を使用して、ドイツ軍仕官の戦術、修理などの教育、訓練を行った。
グーデリアンの意見に興味を持ったのが、何を隠そう、あのアドルフ・ヒトラーであった。ヒトラーは当時ナチス党に国家社会主義自動車軍団(NSKK)を設け、自動車運転手、修理技術者などを大量に養成していた。
ヒトラーはグーデリアンの案を取り上げ、1935年のドイツ再軍備の際、3個装甲師団を設置し、そのうちグーデリアンは第2装甲師団長に任命された。
彼は「戦車戦学校」を1937年に著わした。彼の理論は戦車を陸戦の中心としながらも歩兵代わりにするのではなく、航空機、トラック、輸送車など機動力を高めた歩兵を使用し、高い移動力を持った戦闘部隊を目指したものであった。
彼の理論は第2装甲師団と、LSSAH連隊に指揮された部隊が1938年のオーストリア併合された際に実証された。彼等は48時間で1000キロの距離を走破したのだ。
第二次大戦が始まると、1939年9月のポーランド戦では1個装甲師団、2個自動車化歩兵師団を持つ第19師団師団長となり、ドイツと東プロイセンを分断していたダンツィヒ回廊を短時間で壊滅させ、その功で「騎士十字章」を受章する。
1940年のフランス戦ではグーデリアンの指揮する第19装甲軍団はドイツ軍の先鋒として、アルデンヌ高原を走破した後、アミアンからダンケルクまでを一気に走破した。
余りの快進撃に兵站が追いつかず、また余りの圧勝に驚いたドイツ軍首脳部はグーデリアンに攻撃を中止させた。これが後にダンケルクの奇跡とされ、約33万8千人のイギリス軍、フランス軍など連合国が撤退するのを、グーデリアンはただ見ているしかなかった。彼の編み出した戦車部隊の集中運用と航空機に基づく電撃戦はその後の戦闘の基本となった。
1941年6月22日から開始された独ソ戦では中央軍集団に属する第2装甲軍団と進撃し、同僚のホルマン・ホト大将率いる第3装甲集団と共に出撃し、主にミンスク、スモレンスクでは大戦果を挙げる。後に南方軍集団と合同してキエフの大包囲網を成功させた。
その後モスクワへ進撃し、10月には二重包囲網で大戦果を挙げ、11月には第3軍ゲオルグ・ハンス・ラインハルト上級大将、第4装甲軍のエーリヒ・ヘプナー上級大将と共にモスクワ攻略を開始した。しかし、第4軍のギュンター・フォン・クルーゲ元帥とはそりがあわずに攻撃は失敗し、更にソ連軍がシベリアから兵を出すに及び、攻撃は困難となり、12月にグーデリアンは解任された。
1943年3月1日、グーデリアンは装甲兵総監に任命されたが、実際には役職のみであった。
1944年7月21日、彼はヒトラー暗殺未遂事件が起こり、何名もの将軍が処刑される中、陸軍参謀総長に命じられた。
グーデリアンは名誉法廷の一員となり、暗殺未遂加担者の1人となって暗殺計画者の不名誉除隊を決めた。これにより加担者たちは軍法会議でなく、ヨーラント・フライスラー長官の人民法廷で裁かれた。
グーデリアンは9ヶ月の間、ドイツ防衛に携わった。しかし、ヒトラーに勝てない戦争を辞める様に進言すると、1945年3月28日グーデリアンは解任され、6週間の静養を取るように命じられた。
グーデリアンはアメリカ軍に1945年5月10日に降伏した。彼を処罰しようという動きがポーランドとソ連にあったが、それは実行されなかった。1948年に釈放されると、アメリカ兵学校などで講義をおこなっている。
彼は1954年5月西ドイツ南部のシュヴァンガウで死去した。
(藤原真)
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