Ⅲ号突撃砲戦車といえば、その低い車高と強力な75ミリ砲搭載で、一部ではソ連軍戦車を一番撃破した戦車として有名である。当時のソ連軍ではⅢ号突撃砲とは戦闘を行うなと言う指令が出ていたという噂があるくらいである。
日本の主力戦車である九七中戦車は、15トンの重量に170馬力のエンジンを積み、25ミリの装甲厚を持ち、主砲は47ミリ短砲身砲を装備、38キロの最高速で、航続距離は210キロであった。
日本戦車隊はジャングルを切り開きながら、アメリカ軍M3軽戦車との戦闘には勝利したが、主力であるM4シャーマン戦車に対しては性能的に圧倒的に不利だった。
1943年以降、日本は物量で勝る連合軍の反撃に合い、日本の占領してきた島々が次々とアメリカ軍に占領され、守備隊の日本軍は玉砕を強いられていた。その原因の一つに戦車の性能があった。日本軍の九七式戦車の47ミリ砲ではM4シャーマン戦車の前面装甲はおろか、側面を零射撃で貫通できるほどの威力しかもたなかった。その時、軍部はドイツに協力を求め、戦車以上に東部戦線で活躍をしていた突撃砲戦車の提供を求めるべきであった。これが独ソ線との大きな違いである。米英国はレンドリースとして、ソ連に大量の戦車とトラックや物資を送り、ソ連の戦線を支えたのであった。
1944年8月、マッカッサー率いる兵力20万人がフィリピンに再上陸する。その第1騎兵師団に所属のM4戦車40両を先頭とする2個大隊が10月24日に攻撃が始まったレイテ湾の戦場に投入される。
そこに日本戦車第二師団のⅢ号砲突撃砲戦車が待ち構えていたら、恐らくアメリカ軍の上陸すら困難なはずとなったはずである…
——
ドイツ軍から給与されたⅢ号突撃砲戦車50両は東部戦線で実戦研修を積み、半年にも渡りT34を初め、強力な敵戦車と戦ってきた。今回は彼等のたくましいその腕が生かされるのだ。日本人戦車兵達の戦意も旺盛だった。まず、彼等はⅢ号突撃砲戦車を木の枝などで偽装し、米軍戦車を上陸させて引き付けた。敵から見える場所には当然いない。
そして、Ⅲ号突撃砲を程良く分散して配列したのである。何も知らずに進むM4戦車の隊列。戦車間は無線で交信して、体長の指揮を待つ。
M4戦車は縦隊を組み、あたかも勝利したように進んで来る。実際、太平洋戦争ではM4は無敵だった。敵は今回もやすやすと戦車を進ませる。
ある地点まで相手をおびき寄せると、隊長の「撃て」という号令が各突撃砲に伝わる。距離は1キロ、敵からこちらの正体はわからない。いきなり先頭のM4戦車が爆煙を挙げて黙った。次に最後尾のM4に1発浴びせた。最後尾のM4戦車に放たれた48口径75mm徹甲弾は前面装甲を貫通し、ひときわ大きな爆音を立てて、砲塔ごと吹き飛んだ。恐らくは弾薬に引火したものと思われる。それを見ていた周囲の日本軍兵士たちは大きな歓声を上げた。
敵はパニックに陥っているように、当たりかまわず発砲をした。M4戦車は次々に破壊され、その屍を晒す。
続けて訪れたM4も敵の位置が分からない。Ⅲ号突撃砲戦車の偽装に引っかかったのである。M4は破壊されたM4戦車の脇を進んできた。今度も良い獲物である。隊長の「撃て」の号令で、先頭車両が破壊され、次に最後尾が破壊された。これはドイツ軍の良く使う方法で、敵を動けなくする一番良い方法なのだ。敵は砲塔を辺りへ動かしては見えない敵に向かって攻撃していた。
一両、一両、敵は血祭りに挙げられる。
完全にパニックに陥った敵は戦車を捨てて、中から出ようとしていた。
戦闘は僅か30分で決まった。全てのM4戦車は3号突撃砲戦車に撃破されたのである。
やがて、敵重砲がⅢ号突撃砲戦車を襲う。位置が分からないから、直撃するかぎり破壊されることはない。こうして40両のM4戦車は、ドイツ軍式戦法で全てが破壊されたのである。こうして敗北が続いていたアメリカ軍に日本軍が一矢を向いたのである。
——
Ⅲ号突撃砲戦車はM4シャーマン戦車と互角以上に戦え、アウトレンジで攻撃が出来、戦場は恐らくアメリカ軍の負傷兵で埋め尽くされたはずである。1944年10月のフィリピンのレイテ島に米軍が上陸した際、その火力と防御力はかなり米軍を苦しめたはずである。ただし、これは正面攻撃に限った話であって、米軍戦車隊が左右に分散すれば話は変わるが。
ドイツ軍のⅢ号突撃砲が戦闘に参加した場合結果は史実とは全く異なっていたかもしれな。
日本とドイツが実際に武器や物資の交流を行っていれば、戦史はかなり変わっていたはずであると思うのだが如何だろうか。
(藤原真)
photo:wikipedia