以前、韓国映画で日本軍将校がソ連軍の捕虜となり、その後ドイツ軍としてノルマンディ戦で連合国の捕虜となった話があったが、本当にそのようなことがあったのかを検討したい。
戦記によると、ドイツ軍とイタリア軍が共闘している話は多く聞くが、日本軍とドイツ軍が共闘したという記録はない。ただし、潜水艦同士では何度か交流があった。日本にドイツの機関銃や最新兵器の設計図を渡した話は有名である。逆に日本からはドイツでは貴重品であった水銀や酸素魚雷などが交換されている。日本の特殊戦闘機「橘花」「秋水」はドイツ軍から入手したMe262とMe163の設計図を元に製作したが、いずれも試作段階で終戦となっている。
今回の話の題材は、2011年に韓国で公開された映画「マイウェイ12,000キロの真実」を参考に話を進めてみたい。この映画ではノモンハンで捕虜となった日本軍将校と朝鮮人軍属がソ連軍に囚われて、そのままソ連軍兵士として参加、今度はドイツ軍に囚われてドイツ軍兵士として参戦し、最後はノルマンディでアメリカ軍の捕虜となる話だが、話は初めから胡散臭い。
まずは、ソ連軍の捕虜となった場合シベリアの捕虜収容所送りになったと思われる。軍隊では普通、捕虜を自軍の兵士とすることはまずない。その理由は軍隊の規模を敵に知らせたり、場所を敵に知らせる可能性が高いからである。それらの理由から捕虜は捕虜収容所へ送られるのが慣わしであると言える。
映画だとその後ドイツ軍の捕虜となり、今度はドイツ軍兵士として戦うと言う話はありえる話だった。当時ドイツでは親独的な現ソ連政府に反感を持つ捕虜をドイツ軍として徴用した。最大100万人ものソ連人がドイツ軍側で働いていたという記録がある。
また、ドイツでは1942年7月に、当時ソ連軍エリートの第二突撃軍司令官のウラソフ将軍がドイツ軍に投降した。1942年夏から彼はドイツ軍側に立って活動を始め、1943年3月にロシア解放委員会が結成された。ドイツ軍側はウラソフ将軍をロシア解放軍の総司令官に置き、当時の共産主義に反感的なソ連軍捕虜を義勇軍として徴用した。
彼等は2つの師団からなり、最大50,000名の兵力を持つに至った。
彼等は1944年にドイツ軍の武装親衛隊に取り入れられて、主に西部戦線に充てられたと言う。彼等は独自の襟章と腕章を用いていたが、彼等は西部戦線で連合軍と戦闘を交えており、写真に残されているような、アジア人的風貌の元ソ連軍がいてもおかしくはない。
現在のところ、この様な人物は記録に残されていない。ウラソフ将軍はドイツ敗戦後、ソ連に引き渡され1946年8月に他の同志と共に絞首刑にされている。
(藤原真)
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