武装親衛隊外人部隊にインド人兵士がいた理由

インド人部隊

当時、インドはイギリスの植民地であった。そこでインドの独立運動家のチャンドラ・ボースはドイツや日本の力を利用して、インド独立を果たそうと試みた。

当初、チャンドラ・ボースは1941年にイギリスの手を逃れて空路でベルリンに到着した。そこで彼は「インド仮政府」の樹立を宣言し、ドイツ軍はそれを承認した。更に1941年9月にはドイツ軍の支援の下、インド人留学生のブランデンブルグ隊員10名で「自由インド軍団」を創設。その後、アフリカ戦線で捕虜となったインド人の中からボースの呼びかけによって、600名の志願兵が現われた。

彼等はケーニヒブレックの訓練場で訓練を開始し、1942年自由インド兵団は「第950自由インド兵団」と名称も決まった。その後も捕虜などが参加し、更にドイツ人基幹スタッフ300名が加わり、総勢3,500名もの人数になった。」

1943年7月部隊はフランス南西のボルドーへ移動し、戦闘部隊と認められると同時にラカナウ地区の防衛に当たっていた。

また、チャンドラ・ボースは当時の日本軍とも接触した。彼は1942年2月にドイツのキール港をUボートで出港し、マダガスカルで日本潜水艦「伊号第29潜水艦」に移乗し、4月に日本へ到着した。同年10月、チャンドラ・ボースはシンガポールに自由インド仮政府を樹立した。彼はインド代表として大東亜会議にも出席している。

彼の元には45,000名のインド人が参加し、彼等は日本のインパール作戦へ参加するのであった。

一方ドイツのインド兵は1944年に200名がイタリアへ派遣されて、連合軍との戦いに参加した。1944年6月6日ノルマンディに連合国が上陸すると、インド人部隊は激しくなったパルチザンとの戦闘に従事した。

1944年8月インド自由兵団と第950インド歩兵連隊は陸軍から武装親衛隊へ移譲され、「SSインド自由兵団」と改称された。

司令官にはハインツ・バードリング少将が着任し、前線には出ることはなく、後方でプロバガンダ活動に従事していた。

彼等の高い戦闘力は、アフリカ戦線でも、ビルマでも証明されていたが、当時ヒトラーは彼等の戦闘力を認めておらず、ハインツ・バードリング少将もこの任命を左遷と捕らえていた。彼は1945年2月に新任地であったコルベルク要塞で戦死している。更にヒトラーは彼等の装備品を取り上げ、他の部隊へ装備させたという。結局一部の部隊を除き、インド人兵士は最後にはアメリカ軍と自由フランス軍へ降伏している。その後彼等はインドへ名誉ある帰還を果たしている。

一方のチャンドラ・ボースは日本のインパール作戦が失敗すると、インド国民軍も全滅していた。彼は日本経由でソ連へ渡ろうとしたが途中の台北で飛行機事故に遭い死亡している。1945年8月18日、48歳であった。

現在もインドにおいてチャンドラ・ボースは人気の高い政治家であり、当時の穏健派のガンジーとは違った政策でインドを独立させようとした彼の評価は高い。

(藤原真)

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