ヤークトパンター駆逐戦車は傑作戦車と言われるⅤ号戦車パンター戦車の車体を利用し、71口径88ミリ砲を搭載した駆逐戦車である。
この駆逐戦車の開発は、1942年8月に早くも決定していた。パンター戦車の車体に88ミリ砲を装備する重突撃砲として計画をスタートさせ、1943年7月から生産に入る要求がされた。
当初はクルップ社に開発を依頼したが、パンター戦車の車体に88ミリ砲を搭載するには車体に手を加える必要が生じた。その為開発にはダイムラー・ベンツ社が加わり、クルップ社はそれに協力する形で開発が進められた。1943年10月には試作車が完成し、その形状はそれまでの駆逐戦車とは異なり、車体と戦闘室を一体化した極めてバランスの良い物となった。
前面装甲80ミリの厚さは、避弾経始に優れた設計のおかげで30度の傾斜が施され、その装甲厚は160ミリに相当したという。
また側面50ミリ、後面40ミリの装甲が施されていたが、優れた避弾経始の設計のおかげで実際の装甲厚以上の防御力を備えていた。
搭載された71口径88ミリ砲は42式鉄鋼弾を用いて距離2,000メートルで132ミリの装甲を貫通することが出来た。これは事実上、連合国戦車の全てをアウトレンジから破壊することが可能であった。
乗員は5名、その重さは46トンで700馬力のエンジンは最高時速55キロを出すことが出来た。その行動距離は250キロにも及んだ。本車はMIAG社によって1943年12月から生産が開始されたが、その後MNH、MBA両社も生産に加わり、415両もの数が生産された。生産数がこのように少ないのは戦況悪化に伴う空襲や労働力の不足などが理由として挙げられる。
生産されたヤークトパンターは1944年2月から第654重戦車駆逐大隊へと配備が開始され、その後重戦車駆逐大隊や装甲師団の戦車大隊、戦車駆逐大隊へと配備され、東部、西部戦線において期待とおりの活躍を見せたと言う。
第654重戦車駆逐大隊へ配備されたヤークトパンターは、1944年7月30日に3両が、イギリス軍第6近衛戦車旅団のチャーチル戦車1個中隊を迎え撃った。短い戦いの中で、イギリス軍はチャーチル戦車2個中隊が援軍に現れて戦闘を行い、ヤークトパンターは11両の敵戦車を撃破したが、2両がキャタピラに被弾し、破棄されたという。
1944年10月20日から30日に及ぶ戦いで、同部隊は敵戦車52両を撃破、9両を中破、対戦車砲10門を破壊したが、ヤークトパンターも18両が失われた。
第563重戦車駆逐大隊では1月21日から10日間の戦いでヤークトパンター18両とⅣ号駆逐戦車24両は敵戦車58両を撃破したという。その際13両のヤークトパンターが失われたが、敵に破壊されたものは僅か1両で、他は燃料切れや故障によって爆破放棄された物であったという。
大戦末期における戦いでは、以前のような故障した車両や、燃料切れの車両を回収する能力は既にドイツ軍に残っておらず、燃料が切れると爆破破棄されるのが常であった。
ヤークトパンターはその優秀な性能にも関わらずに、満足な性能を充分に発揮できなかったのが残念であったといえる。
(藤原真)