ドイツ戦車解説 Ⅲ号戦車

PzKpfw IIIH on display at the Musée des Blindés in Saumur. The picture taken August 8, 2006.

PzKpfw IIIH on display at the Musée des Blindés in Saumur. The picture taken August 8, 2006. Fat yankey

1935年、それまでのドイツには対戦車戦闘を行える戦車は存在していなかった。そこで、次期主力戦車としてダイムラーベンツ社で開発されたのがⅢ号戦車である。Ⅲ号戦車の開発に当たり、ドイツ軍の戦車の父と呼ばれたグーデリアン将軍の提案による5名の乗員の内訳は運転手と無線手、そして特に砲塔内の戦車長、装填手、照準手の個々の配置はその後の戦車の基本となるものであった。

こうしてⅢ号戦車の初陣は、1939年9月1日のポーランド侵攻戦であった。当初のⅢ号戦車は37ミリ砲を搭載していたが、ポーランド軍の装備していた戦車は旧式な軽戦車であり、Ⅲ号戦車の敵ではなかった。ポーランドはドイツとソ連によって10月1日に制圧された。

続いて行われたのは1940年5月10日から行われたフランス侵攻作戦であった。その際ドイツ軍はマンシュタイン将軍の案を採用し、アルデンヌの森を装甲師団によって突破したのである。実際に連合国はまさかアルデンヌの森林地帯をドイツ軍が突破して来るとは思わずに、ベルギーのディール河沿いに兵を集中していたのである。

その電撃戦の主役となったのは主力戦車のⅢ号戦車であった。フォン・クライスト将軍率いる戦車師団はアルデンヌを抜けてセダンを占領した。だが、その戦闘でⅢ号戦車は搭載砲の37ミリ砲の威力不足を露呈したのである。

特にロンメル将軍の指揮する第七装甲師団は進撃を重ねミューズ河湖畔へ一番乗りを果たした。更にアラスでは5月21日にイギリス軍の戦車74両と将兵1万5千名の内、2000名が戦闘に参加した。その際ドイツ軍のⅡ号戦車の20ミリ砲、Ⅲ号戦車の37ミリ砲で敵のマチルダⅡ歩兵戦車には歯が立たず、ロンメル将軍が搭乗していたⅢ号指揮戦車も被弾した。

そこで、ロンメル将軍は対空砲であった88ミリ砲の水平射撃を行わせて、英戦車部隊を撃破し、イギリスのフランス支援は無理となり、事実上フランスも6週間で降伏したのだった。

その後、ドイツ軍はⅢ号戦車の搭載砲を50ミリに変更したが、当初の生産型では42口径と短砲身の砲であった。Ⅲ号戦車の中で最も生産されたのがJ型で、1941年から1942年の間に2616両が生産された。

最大装甲50ミリ、21.5トンの戦車は時速40キロ走ることが出来た。その行動距離は165キロであった。更に生産途中から60口径の高砲身化されている。

その後、1941年6月22日にドイツはソ連との戦争を開始した。その作戦名はバルバロッサ作戦と呼ばれ、ドイツ軍は120個師団約300万の兵力と、戦車3500両、約2800機の各種航空機による奇襲作戦であった。ドイツ軍の進撃は凄まじく、作戦開始1ヶ月後には、中央軍集団はミンスクで敵の20個師団を壊滅し、35万人を捕虜にした。更に戦車2万5千両、大砲1400門を捕獲した。ソ連のモスクワから直線で340キロの距離にある主要都市であるスモレンスクが占領されたのは、7月22日であった。

Ⅲ号戦車もソ連軍軽戦車との対決では質的な優位を保ち勝利していた。だが、侵攻していく途中でソ連軍の新型戦車T34中戦車に遭遇したときに、これまでの質的優位性は失われた。それは俗にT34ショックと言われるものである。

T34中戦車は強力な76.2ミリ砲を搭載し、その大きく傾斜した装甲厚45ミリの前面装甲を50ミリ短砲身搭載のⅢ号戦車で打ち抜くことは困難であった。T34戦車をⅢ号戦車で撃破するには、相手戦車との距離を僅か100メートルまで近づく必要があったのである。

1942年になって、長砲身50ミリ砲搭載の3号戦車が戦場に登場するが、それでもT34中戦車はやっかいな代物であった。ドイツ軍は対T34中戦車用に、特殊なタングステン製の砲弾を使用することでなんとか対応することが出来た。

こうしてⅢ号戦車は、1943年以降になると主力戦車の座を75ミリ砲搭載のⅣ号戦車へと引き渡した。1943年に次の主力戦車であるパンター戦車の生産が始まる頃には生産が止められ、第一線を退き補充用戦車として配備されていった。

ドイツ軍の本格的対戦車戦闘を想定して開発された、Ⅲ号戦車の総生産数は6000両を超えると言われている。

(藤原真)