1935年にヒトラーは、ベルサイユ条約を破棄し、再軍備を宣言した。その際開発された訓練用戦車がI号戦車である。I号戦車は当初から訓練用として製造されており、装甲も薄く、武装も7.92ミリ2丁と貧弱な物であった。
1935年10月に、軍部は10トン級の戦車の開発をMAN社に命じた。こうして誕生したのがII号戦車である。乗員は3名で、砲塔には55口径の20ミリ機関砲と7.92ミリ機銃が同軸で装備され、20ミリ機関砲には榴弾も発射可能であった。II号戦車は主に敵重機関銃陣地を制圧する目的で使用されたという。実際に初期の戦闘では、II号戦車の火力も有効であった。
II号戦車の代表的な型であるA/B/C型は1,113両生産された。重量が8トンで最大装甲厚は14.5ミリである。140馬力のエンジンを搭載し、時速40キロの最大速度を出し、200キロの行動距離があった。
1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻作戦が始まると、当時のドイツ軍では主力戦車のIII号、IV号戦車の配備はまだ少数であり、実際はこのII号戦車が戦車部隊の主力であった。
その当時のドイツ軍は装甲兵力が3個軍団、5個装甲師団、4個軽師団、4個自動車化師団を保有していた。保有する戦車の総数は3,200両に達していたが、主力のIII号戦車は98両、IV号戦車は211両と僅かな数が配備されていたに過ぎない。残りの約2,700両はI号、II号戦車と言った軽戦車であったのだ。
また、対するポーランド軍の機甲師団は僅か1個機甲旅団と少数の軽戦車を配備した13個大隊のみであり、そのほとんどは騎兵であった。ドイツ軍はポーランド軍に対して、北、西、南から攻撃をする計画を立てた。実際に戦闘が始まると、旧式な重火器を装備したポーランド軍はドイツ軍の敵ではなく、各自包囲殲滅されていった。
9月8日から18日に渡って行われたブズラの戦いではポーランド軍が反撃に出ようとしたところを、ドイツ装甲部隊が機敏に対応して包囲し、密集したポーランド軍部隊を壊滅させた作戦では、世界最初の装甲部隊による大勝利だと言われている。
9月27日、ポーランドの首都ワルシャワが陥落してポーランド戦は終了したが、東側から進撃してきたソ連軍によって、ポーランドは分割されてしまった。
ポーランド戦でII号戦車はその装甲の薄さから、敵の重火器で撃破されることが懸案となった。その処置として、前面装甲に15ミリの追加装甲が取り付けられた。また、本来の主力戦車であるIII号戦車、IV号戦車の配備数が増加するにつれて、II号戦車は主に偵察や連絡を主任務とする様になった。
だが、実際の配備数ではまだII号戦車が圧倒数であったのは確かであった。そしてII号戦車はその後のドイツ軍の侵攻した地域の全ての作戦に参加している。フランス戦、バルカン戦、アフリカ戦線、そして東部戦線とドイツ軍戦車部隊の現れる戦線には、非力ながらII号戦車の姿が必ずあったのだ。
II号戦車は1942年末まで生産され、その生産数は1,680両にも上るという。また、II号戦車の車体を流用して開発された自走砲も多数存在している。
(藤原真)