ドイツ軍最後の大作戦「バルジの戦い」
1944年はドイツ軍にとって最悪の1年であったと言える。東西各地での敗北は、次第にベルリンへと敵が押し寄せることを予想させた。ヒトラーはこの難局を救う為に、東部戦線のソ連軍か、西部戦線の連合軍のいずれかに攻勢して大打撃を与える他にないと考えていた。その結果、ソ連軍よりも組みやすい西側の連合国への反抗を決めた。これが、ドイツ軍最後の反抗作戦である「ラインの守り」作戦であった。
作戦開始時期は冬季とし、悪天候と日照時間の短さによって決められた作戦であった。攻撃地点は4年前の電撃戦を再現するべく西部国境地帯のアルデンヌの森林が選ばれた。
作戦としてはアルデンヌの森林を抜けてミューズ川を超え、アントワープに突進して連合国の北を分断し、その補給基地を破壊して連合国の春季攻勢を阻止することであった。
ここにドイツ軍は20万もの兵力を終結した。攻勢を担当するのはB軍集団の司令官のワルター・モーデル元帥であった。北方側を任されたのはSS第6機甲軍、ゼップ・ディートリッヒ大将。中央が第5機甲軍ハッソー・フォン・マントイフェル大将。南側の担当はブランデンベルガー将軍であった。
ヒトラーの考えとしては、アルデンヌを突破した後、ミューズ川の連合軍を制圧し、アントワープとシェルト川を占領する。これによって米第1、第9、英第、カナダ第1の各軍を撃破することであった。これによって連合国は和平を結んでくるのではないかとヒトラーは思った。予想戦場の交通要点のマルメティ、サンビト、ウーファリズ、バストーニュの4箇所は攻勢2日で占領する計画であった。
1944年12月15日夜半、攻撃が開始された。その攻勢に伴い、オットースコルツェニーSS中佐はヒトラーの命によって特殊部隊を組織した。第150装甲旅団と呼ばれる特殊部隊には戦車や装甲車約70両と3,500名の兵員を抱えていた。これらのコマンド兵はアメリカ軍の装備をして、戦車にもアメリカ軍のマークが描かれ偽装が行われた。彼等は全員英語を流暢に話し、アメリカ軍内部を混乱させることを主な目標としていた。この作戦は「グライフ」作戦と呼ばれた。
彼等は道路標識を破壊して電話線を切断し、米軍MPに変装して移動するアメリカ軍にデタラメな道へ誘導したりした。やがて米軍内部にはドイツ軍のコマンド部隊によるアメリカのアイゼンハワー暗殺計画も持ち出された。混乱した彼等は合言葉などを用いて、12月17日にミューズ川手前の検問所で最初にコマンド兵が逮捕されて以来、次第に彼等は捕らえていった。結局最後にはコマンド部隊も一般部隊へと編入されていったのである。
更にこの作戦では第1SS装甲師団から選ばれたヨアヒム・パイパー中佐のもとに、パイパー戦闘団が組織された。彼は東部戦線で様々な戦功を挙げ、騎士鉄十字章を授章していた。これに参加する兵士は5,000名近くであり装備する戦車も100両を超え、装甲師団と言われてもおかしくない規模を誇っていた。
12月16日部隊は進撃したが、他の戦闘部隊もおり、道路はドイツ軍の車両で溢れた。パイパーは強引に前進し、ランツェラートの町に辿りついた。二日目の前進ではアメリカ軍87名を捕虜にする戦果をあげた。午前10時にはビュリンゲンで5万ガロンの燃料を奪取することに成功した。
作戦3日目、パイパーはスタブローに対する攻撃を実施した。彼等はアメリカ軍を蹴散らしながら前進をしたが、ストゥーモン近くのアンブレーブ川を渡った直後、P―47D戦闘爆撃機の攻撃を受けた。その際12両の車両を失ってしまった。作戦5日目になると、戦車の燃料不足が深刻となっていた。さらに作戦8日目になると、パイパーは第1SS師団へ脱出を依頼し、許可が出された。そうして作戦9日目にパイパーは残された兵力1,000名余りと共に撤退を開始し、25日の朝にようやく友軍陣地へ辿りついたのであった。
一方、ドイツ軍の攻勢は1944年12月15日の夜半に攻撃が開始された。初日の作戦は極めて順調であった。17日朝から戦闘は開始された。国境を守備していた米第28師団司令部は後退してくる部隊を防衛線につけた。そこにはドイツ軍砲兵が嵐のような射撃を浴びせていた。更にドイツ軍は攻勢を強め、ここに米第28歩兵師団は壊滅した。
19日にはバイエルライン少将が自ら戦車15両と共にバストーニュを目指して進撃した。双方の攻撃でやがて前線は膠着した。22日午前にはドイツ軍の軍使が来て、バストーニュ守備隊の降伏を要求してきた。守備隊は当然拒否をした。午後からは激しい雪が降り出していた。
翌23日にはパットンに指揮された救援部隊が21キロまで進出していた。更に天候は回復し、待機していた連合国軍の攻撃機、爆撃機が飛び立った。
ドイツ軍はなおも包囲の環を締めつづけた。やがて全滅する米軍小隊が出始めた。パットン戦車隊がバストーニュに到着したのは26日午後4時を超えていた。その頃、ドイツ軍の虎の子の機甲師団も事実上全滅していた。
ヒトラーの運命を賭けた「ラインの守り」の戦いもこうして幕を下ろしたのである。
(藤原真)