1941年、バルカン半島のベオグラードへ進出したドイツ軍はベオグラード放送局から毎晩、友軍部隊を鼓舞する目的で前線兵士等の投稿を読み上げたり、音楽を放送していた。その中でも同時のドイツ軍ではユダヤ系歌手や作曲家などの曲を掛けることが一切出来なかった。
そんな時、偶然ベオグラード放送局に紛れ込んだ1枚のレコードが奇跡を起こした。その曲の名は「リリーマルレーン」という。当時25歳の女性歌手ララ・アンデルセンが歌うこの曲は、1939年に700枚のみ録音された曲だった。作詞はハンス・ライプと言い、内容的には第一次世界大戦に従軍した歩哨が故郷の恋人への想いを綴った詩であり、1938年に作曲家のノルベルト・シュルツェが曲をつけたものである。
リリーマルレーンは1941年6月14日にベオグラード放送で繰り返し放送されるや否や、この曲はたちまちドイツ軍兵士の心を掴んだ。兵士達はこの曲のリクエストを送り続けたという。
特にロンメル将軍率いるアフリカ戦線でこの曲は評判となり、この曲が掛かっている時間帯はドイツ軍、イギリス第8軍軍両軍とも戦闘を中断し、両軍兵士達がこの曲を聞いたと言う。中には故郷の恋人を思い出しては涙を流す兵士の姿もあったといわれている。
その後、ララ・アンデルセンはリリーマルレーンの人気で、たちまち大スターとなり前線へ赴いて慰問活動を続けた。また、リリーマルレーンの人気はヨーロッパ戦線で戦う兵士の間にも広まっていったという。
しかし、リリーマルレーンの歌詞が当時のドイツでは退廃的であり、兵士の士気を損なうという理由で、宣伝相のゲッベルスによってラジオでの放送を禁止してしまった。
だが、前線兵士からのリリーマルレーンを望む声は日々に高まり、遂にはゲッベルスも折れて、ベオグラード放送の終わる直前にのみ、この曲を放送することを許可したと言う。
毎晩午後9寺55分から放送されるこの曲を、前線の兵士等は毎日楽しみにしていたのである。そして激しい戦闘後の癒しとしてこの曲を聞いては、心を慰めるのであった。
その後、ララの親しい友人であった作曲家のロルフ・リーバーマンがユダヤ人であることが発覚するや、1942年夏に彼女は歌手活動を封じられ、挙句に彼女は自殺未遂を起こしてしまうのである。
また、当時アメリカに亡命していたドイツ人女優のマレーネ・ディートリッヒが1943年にこの曲をカバーしてアメリカ軍兵士等へ慰問活動の際に歌ったこともあり、アメリカ軍兵士へもこの曲は広まったと言われているが、当のドイツ人は彼女を売国奴として嫌い、死後ドイツに埋葬されたマレーネ・ディートリッヒの墓が暴かれる事件が起きている。
一方のララ・アンデルセンはドイツ北海にあるランゲオーク島に移住して、1972年に訪問先のウイーンで62歳の生涯を閉じたという。彼女は今もランゲオーク島に眠っている。
(藤原真)