Ⅲ号戦車はドイツ軍の主力戦車として、1935年から開発され始め、1937年には37ミリ砲搭載型が生産された。後に搭載砲を更に強力な50ミリにすることが決まり、1939年のF型では42口径50ミリ砲に換装された。
だが、ヒトラーは1940年8月に42口径50ミリ砲を60口径の長砲身化を命じたのが、1941年4月の閲覧式で新型のJ型が、未だに長砲身に換装されていないのを見るや激怒したと言う。その後J型からⅢ号戦車は長砲身に換装されたという。
その後、1941年6月22日にドイツ軍の奇襲で始まった独ソ戦が開始されると、雪崩の様にソ連軍陣地へ突入したドイツ軍は総勢300万。歩兵師団118、機械化師団15、機甲師団19、戦車3600両、飛行機2700機と更にドイツの同盟国が加わって攻撃を加えた。
不意を衝かれたソ連軍はたちまち敗走を重ねた。当初は4ヶ月でソ連は落ちると見ていたヒトラーだが、大きな誤算があった。8月に入るとドイツ軍の進撃は鈍り、次第に滞って来た。
その最大の原因は、敵の新型戦車の登場であった。特にT34/76中戦車の戦場への登場は、ドイツ軍に大きな衝撃を与えた。主力のⅢ号戦車は、50ミリ短砲身搭載の戦車であった。これに対してT34/76中戦車は76ミリ砲搭載で、前面装甲厚52ミリの装甲も傾斜してあり、Ⅲ号戦車の50ミリ砲ではT34/76中戦車の装甲を打ち抜くことは困難であった。
Ⅲ号戦車の50ミリ砲では、敵戦車との距離を100メートルまで詰めないと、砲弾はT34/76中戦車の前面装甲を貫通しないことが明らかとなったのだ。当然、当時のドイツ軍の主力戦車砲であった37ミリ対戦車砲などは役に立たず、敵戦車はいとも簡単にドイツ軍陣地を蹂躙したのである。T34の登場はドイツ軍に大きな衝撃を与えた。これがいわゆるT34ショックと呼ばれる物で、ドイツ軍兵器の絶対的な優秀性が損なわれたのである。
1942年になると、長砲身砲搭載のⅢ号戦車が多く装備され、砲弾も特殊なタングステン弾を使用することで、より強力なT34/76中戦車を撃破することが可能になった。
これら激戦を生き残ったドイツ軍戦車搭乗員達は工夫をして、最大装甲厚50ミリの装甲の防御力を上げる努力をした。最も行われたことは、戦車の前面に予備キャタピラを載せたり砂袋を載せることであった。
戦闘中では敵の戦車に対して、戦車の前面を敵に向けて戦うのでなく、斜めに角度をつけて向き合うことで、敵の砲弾が当たっても斜めの装甲に当たる分、装甲厚以上の防御力を得ることが出来た。
また、戦場では常に動き回った。止まる事は死を意味していたのである。更に敵戦車の主砲の射線を常に把握し、敵戦車の射線を敢えて交わす運転法を取った。言わばブレーキと急発進を混ぜたジグザグ走行であるが、歴戦の戦車搭乗員達はこれらをマスターして生き残ったのだ。
その後、Ⅲ号戦車の搭乗員達の多くはより強力なパンター戦車に換装されていったのである。
(藤原真)