ヒトラー暗殺事件で最も有名なのは、1944年7月20日のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺未遂事件である。
しかし、その事件以外にもヒトラー暗殺計画は練られて来た。1932年から1945年までに練られたヒトラー暗殺計画の数は27にも上ると言われている。
その中でも有名な暗殺未遂事件と言えば、1939年11月8日に実行された暗殺未遂事件ではないだろうか。ナチス党は毎年11月8日になると、ミュンヘンにあるビアホールのビュルガーブロイケラーに集まっては1923年の「ミュンヘン一揆」を記念する集会を開いていた。その席でヒトラーが演説を行うのが恒 例行事となっていた。
だが、その日のヒトラーは西部戦線攻撃計画の決定に、急いでベルリンに戻り陸軍首脳と計画会議を開く必要があった。
その為に、例年であれば午後8時半から10時過ぎまで行われるヒトラーの演説も、予定を変更して切り上げることとなった。ヒトラーは演説を早めに切り上げて午後9時7分にビアホールを出た。
爆弾はその7分後に、突如演壇背後の柱が爆発した。この暗殺未遂事件で死者は8人に上り、負傷者は63名にも達したと言う。
この暗殺事件未遂事件の犯人はゲオルグ・エルザーという名の家具職人であった。彼は時計職人の資格も持っており、事件当時は別の事件で警察に捕らえられていたのだ。その為に、エルザーの犯行と分かるまでには時間を要したと言う。
エルザーはヒトラーに狂気を見つけ、ヒトラーがやがて戦争によってドイツを破滅の道に進むのを止める為に、ヒトラーの暗殺を決めたのだと言う。
エルザーは毎日、下宿先から夜になるとビュルガー・ブロイケラーまで出向き、柱を繰り抜いて毎日爆弾設置作業に励んだ。
時計職人の知識を生かして時限信管を設置し、爆弾を完成するまでに延べ30日以上を要したと言う。
ヒトラー暗殺に執念を燃やしたエルザーではあるが、彼はドイツ敗戦直前に処刑されている。
その事件以外にも、ヒトラーに反感を持ったドイツ軍の将兵が多数居たのは事実である。彼等がヒトラー暗殺計画を幾つも練ってはいたが、実行されるには至っていない。その集大成として行われたのが、1944年7月20日に行われたヒトラー暗殺未遂事件であった。
文章 藤原真