ドイツの再軍備が始まった1936年、その仮想敵国はフランスとポーランドであった。だが38年にヒトラーはイギリスに変更する。これはドイツの再軍備に大きな影響を与えた。
レーダー提督は強大な海軍力を持つイギリスと正面から戦って勝ち目のないことを知っていたのだ。海軍のレーダー提督はヒトラーに二つの案を提示した。その一つが装甲艦を建造してイギリスの通商破壊に徹すると言う物、もう一つはイギリス軍と対抗できる兵力を準備するというものであった。
結局、1939年1月に通称作戦が採用され「Z計画」と名づけられたが、レーダー提督は45年までに軍備を整えればよいと言う確約を得ていたが、結局39年にドイツは戦争に突入してしまい、Z計画は事実上空中分解してしまった。
当時ドイツ海軍が保有していた艦船は巡洋戦艦2隻、ポケット戦艦3隻、巡洋艦8隻と僅か30ほどの駆逐艦と水雷艦に過ぎなかった。ドイツ海軍の主力として期待されていた「ビスマルク」と「ティルピッツ」はまだ建造中であった。そこで通商攻撃の主役は潜水艦のUボートを中心にせざるを得なかった。
第二次大戦中に製造されたUボートの総数は1,131隻で、一番多く製造されたのがⅦ型であり709隻が製造されている。乗員は44名であり、その後続距離は90海里を有していた。(型により異なる。)
開戦時、Uボートは僅か57隻が就役していたに過ぎなかった。開戦と同時にUボートは作戦を開始するが、それにはヒトラーによる制約があった。Uボートが船を沈める場合は一度浮上して臨検を行い、撃沈の可否を決定することだった。これは「ハーグ協定」に決められており、ヒトラーがイギリスとフランスを刺激するのを恐れた為だと言われている。
その件にドイツ海軍は非常に危険な行為だとして反対して、結局全ての制限が解除されるに至った。こうしてUボートは黄金時代を迎えることとなった。
ドイツはイギリスのシー・レーンを遮断する為に、アイルランド西側に哨戒線を設定し、1つの船団にUボートを集中して攻撃させる「狼群戦術」と呼ばれる戦術を採用した。その戦果は39年9月の開戦から僅か半年で、Uボートは輸送船230万トンを撃沈した。
1940年フランスが降伏するとUボートは直接大西洋に乗り出せるようになり、その結果40年6月から12月までの間に250万トンもの戦果を挙げることが出来た。
1941年12月にアメリカが参戦すると、デーニッツは「太鼓の連打」作戦を発動し、戦争準備の整わないアメリカ軍の輸送船多数を撃沈している。
Uボートの隊員は極めて健康な者に限られており、その狭い船内に私物を持ち込むことは出来なかった。また、50名前後の隊員全員のベッドはなく、ベッドは他の隊員が寝た後の生温かいベッドに寝た。食料品は天井からハンモックで吊り下げられ、平均2週間分の食料が搭載された。荷物はあらゆるスペースに積み込められた。
彼等は約2ヶ月の間、衣服は着替えることが出来ず、洗髪もひげさえ剃ることができなかったので、帰航した彼等は異常に体臭がきつかった。しかし、彼等は船長を尊敬し、その団結力は極めて高かった。
Uボートの被害が甚大になるにつれてイギリスやアメリカは本格的な対策を迫られた。船団の護衛は強化され、レーダーや対潜迫撃砲「ヘッジホッグ」と言った新兵器の投入によって次第にUボートの活動は狭められていった。更に護衛に空母が付く様になると、対潜哨戒機が常に飛び回り、水上に上がることさえ困難になった。1943年5月頃のドイツ軍海軍は最大の危機に直面していた。
ドイツ軍も敵レーダーの逆探知装置や音響魚雷を投入するが、1944年3月、遂に「狼群戦術」は終了せざるをえなかった。44年以下のUボートはかつて「海の狼」として活躍していたが、その頃になると活動の場を次第に失い、翌年5月の敗戦を迎えたのであった。
1939年9月から45年5月までにUボートがあらゆる海域で撃沈した戦果は合計2,603隻、1,357万総トンに達した。その90%は大西洋と隣接海域、カリブ海で記録されている。他に175隻の軍艦が加わる。
その内849隻のUボートが撃沈された。またUボートに従事した乗務員は4万人。その内2万8,000人が戦死し、5,000人が捕虜となった。彼等の乗務員7割が戦死するという過酷な戦闘であった。
(藤原真)
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