第二次大戦でドイツ軍が実線に使用した最大の駆逐戦車が、このヤークトティーガーである。搭載された55口径128ミリ砲はドイツ軍が使用した最強の戦車砲であった。
その開発の背景には前線から3,000メートルの距離で、敵戦車を撃破することが可能な自走砲が欲しいという要望に応えるために開発された。その戦車砲の威力は、1,000メートルの距離で150ミリ以上の装甲板を貫通することが出来た。1943年初期に、当時開発中のティーガーⅡと平行してヘンシェル社とクルップ社が共同で開発した。製造を担当したのはニーベルゲン製作所である。
車体となったティーガーⅡの車体に128ミリ砲を搭載させるために、車体を41センチ延長してこれに対応した。1943年10月にモックアップがヒトラーに提示され、1944年7月から生産が開始されている。
前面装甲厚は最大で250ミリにも及び、これを撃破することは極めて困難であったと言われている。その反面、その車体重量は75トンにも及び、その運動性もティーガーⅡやパンターG型と同じ700馬力のエンジンを搭載していた為に、その運動性は劣悪であった。また、ドイツ軍重戦車に付きまとっていた、車体重量から来る変速器やブレーキ部分のなどの機械的な故障に悩まされていた。
また、大戦末期のドイツ軍では一度故障したヤークトティーガーを牽引できる牽引車はなく、その場で放棄されるか、爆破処分されるのが常であった。
乗員は6名で最大時速は38キロで走ることが出来た。またその行動距離は120キロとされていた。乗員が他の駆逐戦車よりも1名多いのは、128ミリ砲弾の重量だけでも28キロにも及んでいた為に、砲弾と薬莢が分離式の装填方法が採られており、装填手を2名必要としていたからである。その生産数は82両から100両だと言われている。
この生産車の内10両はポルシェが考案した外装式サスペンションを備えて完成しており、また4両は主砲の生産遅延の為に88ミリ砲を搭載していた。
ヤークトティーガーは1944年12月から部隊配備が開始され、第653、第512重駆逐戦車大隊に配備された。
第653大隊の第3中隊の4両は3月24日にノイシュタット北の町でアメリカ軍と対戦した。その際25両のM4シャーマン、M10駆逐戦車を撃破したが、驚くべきことにヤークトティーガーの損害は皆無であった。
第512重駆逐戦車大隊の第1中隊には計10両が装備され、アルベルト・エルンスト中尉が指揮するヤークトティーガーは3月28日午後にディーレンブルへ移動中にアメリカ軍シャーマン戦車の縦隊を発見した。同中隊は3日間その場所に留まり、30両以上のシャーマン戦車を撃破した。その距離は3,000メートル以上、離れた距離からの攻撃で仕留めた物であった。
第2中隊はロシア戦線の戦車戦のエースであるオットー・カリウス中尉が指揮をしていた。彼はヤークトティーガーに乗車して、4月9日にはウンナの町の救援で6両以上のシャーマン戦車を撃破している。
これらエース達の活躍も、ヤークトティーガー最後の活躍に花を添えているように思われる。
(藤原真)