1941年に開始された独ソ戦において、ドイツ軍は主力戦車である、Ⅲ号、Ⅳ号戦車よりも優れた敵主力戦車であるT34中戦車やKB1重戦車に遭遇した。これらの敵戦車は、当時のドイツ軍が誇る戦車を過去の物としてしまった。
ドイツ軍は1941年11月に捕獲したT34中戦車を徹底的に調査した。軍需相アルベルト・シュペーアを長とするチームがまとめた調査報告書によると、T34は良好な傾斜を持つ装甲板で構成され、充分な装甲厚で戦車の砲弾を跳弾してしまう可能性があった。更に大直径輪と幅広なキャタピラにより不整地装甲能力が極めて高く、高初速の76.2ミリ砲という強力な火力も、当時の戦車の水準を大きく越えていた。
新戦車開発委員会は後にパンター委員会と呼ばれ、ダイムラーベンツ社とMAN社に試作車の設計を依頼した結果、MAN社の製作した試作車が選定され、1942年には試作車が完成したが、ヒトラーが前面装甲厚を車体80ミリ、砲塔100ミリにするよう命じた為に、大幅な重量増加となり、当初搭載が予定された650馬力エンジンでは出力が足らずに700馬力のエンジンが採用された。
1943年1月より生産が開始され、パンター戦車の性能を高く評価したヒトラーは、夏季に予定されたチィタディル作戦に新型戦車のパンターを登場させて、ソ連を一気に叩こうとした。1943年7月に開始されたチィタディル作戦に参加したパンターは、80両にも上ると言われているが、生産を急いだ余りに初期不良が続出し、エンジンの冷却装置やギアボックスに爆弾を抱えており、満足な戦闘に参加する前に、戦線から脱落していった。
その後機械的なトラブルは改善されて、パンター戦車はT34キラーとして活躍した。代表的な型であるG型は5名の乗員を乗せ、44.8トンの車重に700馬力のエンジンを載せた。また70口径の75ミリ砲を搭載し、最大装甲厚は110ミリにも及び、最高速度46キロで177キロの行動距離があった。パンターG型は3,126両余りが生産された。
パンター戦車は東部戦線、西部戦線共に活躍をした。特に西部戦線ではパンター戦車はティーゲル戦車と同じく独立部隊で運用していると思い込んだ連合国は、パンター戦車が大量に配備され、ドイツ軍の主力戦車でいるのを見て驚いたという。パンター戦車に搭載された70口径75ミリ砲の威力は強力で、距離2,000メートルで127ミリの装甲を貫くことが出来た。
パンター戦車を駆った戦車戦のエースで最も有名なのは第2SS師団所属のエルンスト・バルクマン曹長である。彼は1944年7月26日に、西部戦線においてサン・ローからクータンスに伸びる主要道路の分岐点でアメリカ軍の戦車、装甲車、トラックなどを次々と破壊した。その数は9両にも及び、バルクマンは8月5日までこの地区で戦った。後にこの一帯は兵士達の間から「バルクマン・コーナー」と呼ばれるようになったという。彼はこの一連の戦いによって、騎士鉄十字章を受章している。彼が撃破した戦車の総数は50両を越えたという。
パンター戦車は各型を含めて約6,000両が生産された。これはⅣ号戦車に次ぐ生産数である。
攻守共に優れた性能を誇ったパンター戦車は後に砲塔を小型化してステレオ式測遠器を採用したパンターF、及びこの砲塔を用いて転輪をティーゲルⅡと共用するパンターⅡが計画されたが、実現化されることはなかった。
(藤原真)