ドイツ軍戦車の中で、ティーガー戦車ほどに有名な戦車はない。それは連合国軍兵士を恐怖の的に陥れた無敵の戦車というイメージが、そのままティーガー戦車のイメージに繋がっていると思われる。
陸軍兵器局は1941年5月にフランス戦で活躍した高射砲の88ミリを搭載した新戦車の開発をVK4501の名称でポルシェ、ヘンシェル両社に対して行った。その主な理由として、フランス戦でのイギリス、フランスの新型戦車に対して、ドイツ軍主力のⅢ号、Ⅳ号戦車では対戦車戦闘において、敵戦車を撃破するのが容易ではなかったことが原因として挙げられる。
両社の試作車は1942年4月21日にヒトラーの誕生日に合わせて公開された。ポルシェ社の試作車は電力を動源とし、モーターでエンジンを動かす方式を採用したが、実用化できずに、試作車もコード線が焼けて煙を出し、満足に動くことが出来なかった。
それに対して、ヘンシェル社の試作車は堅実な造りをしており、次期新戦車にはヘンシェル社が採用された。こうしてティーガーⅠ型重戦車は1942年8月から生産が始められた。一方ポルシェ社は先行して車体の製造を既に90両ほど生産していたが、これは後に重駆逐戦車フェルディナントへと改造された。
ティーガー戦車はアフリカ戦線やイタリア戦線を含め、ドイツ軍のほとんどの戦場に参加している。その初陣は1942年9月23日に、東部戦線のレニングラード近郊ラドカ湖の戦いに投入されたが、湿地帯にキャタピラを取られて満足な戦果を挙げることが出来なかった。だが、後の戦闘では次第にその強力な56口径88ミリ砲の桁違いの破壊力と、その最大厚100ミリもの重装甲は後にティーゲルⅠ型戦車は無敵の戦車だというイメージを作り上げるのには充分であった。
ティーゲル戦車は乗員が5名で57トンの重量を誇り、700馬力のエンジンは最高速度40キロを出すことが出来た。そしてその行動距離は195キロであった。
だが、その重量は余りにも重たすぎたのである。片方でその整備には超人的な忍耐力が必要であったと言われている。ティーゲル戦車は走るだけで何処かしら壊れるような繊細な戦車であった。
その運用法も特殊で、ティーガー戦車は主に独立重戦車大隊として運用され、戦局を左右する重要な戦場へ投入された。その重装甲と圧倒的な威力を誇る88ミリ砲は、敵を敵戦車砲の射程外から打ち抜くアウトレンジ戦法を可能にした。
西部戦線におけるティーガー戦車の威力は凄まじく、当時のアメリカ軍戦車兵はティーゲル恐怖症を引き起こしたのである。75ミリ砲搭載のM4シャーマン戦車は正面からゼロ距離でもティーガー戦車の前面装甲を撃ち抜けなかった。その為に、アメリカ軍の戦車乗員はティーガー戦車に遭遇するや逃げ出したり、中には発狂する者も続出したのだ。アメリカ軍の調査によると、1両のティーゲル戦車を破壊するには5両のシャーマン戦車が必要だと言われた。装甲の薄い側面に回って破壊するという作戦であったが、歴戦の勇士の搭乗するティーガー戦車を仕留めること事態が困難であった。
そこで連合国は、圧倒的な航空兵力を利用して地上の戦車を叩いた。それらの攻撃機はドイツ軍にヤーボと呼ばれて恐れられ、空から襲う敵から逃れるために、戦車には小枝や布切れなどで様々な偽装を行う必要があったのである。
1944年6月13日に第101SS重戦車大隊に所属していたミヒャエル・ヴィットマンSS大尉はヴィレル・ボカージュの戦闘において、イギリス軍縦隊25両もの戦車や装甲車を火だるまにした。彼はその功で柏葉剣付騎士十字章を授章した。彼は8月8日に命を落とすが、彼の戦車撃破数は138両に上ると言われている。また、陸軍第502重戦車大隊所属のオットー・カリウス中尉は150両の敵戦車を撃破したと言われている。彼は1944年7月に柏葉騎士十字章を授章している。
その圧倒的な活躍とは反対に、ティーガーⅠ型重戦車の生産台数は僅か1,354両に過ぎない。無敵のティーゲル戦車伝説はこれら英雄的な兵士らの賜物による物であったのだ。
(藤原真)