1941年に開始されたバルバロッサ作戦において、ドイツ軍の誇る主力戦車であるⅢ号戦車を全ての面で上回るロシアの戦車に遭遇した。この戦車こそがT34と呼ばれる戦車であった。
T34は火力、装甲、設計思想など全ての面でドイツ軍戦車を上回り、ドイツ軍はT34に大きな衝撃を受けたのである。それが俗にT34ショックと呼ばれる現象であった。
ドイツ軍の侵攻作戦はこの戦車の登場によって尽く頓挫したと言っても良い。
やがて、ドイツ軍は捕獲したT34を徹底的に検証して、これを上回る戦車の開発をダイムラーベンツ社とMAN社に命じた。
1942年5月には両社の設計案が提出され、ヒトラーの閲覧もあり、当初はダイムラーベンツ社の採用が決められたが、後に検討委員会の検討の結果、MAN社の案が採用された。
1942年7月には試作車が完成したが、ヒトラーは前面装甲厚を車体80ミリ、砲塔100ミリにする命令を出し、量産車の生産は混乱を極めた。1943年1月には量産車が完成し、Ⅴ号戦車パンターD型と命名され、夏季に予定されていた大攻勢チィタディル作戦に間に合わせるべく、大量生産が開始された。
1943年5月までに生産部門はヒトラーに約250両のパンター戦車を使用可能な状態にすると報告をした。ヒトラーは作戦の成功の鍵を握るのは、T34に対抗できる新型戦車であるパンター戦車だと考えていた。
1943年7月5日、ドイツ軍屈指の戦略家であるマンシュタイン元帥の指揮するドイツ軍90万、戦車2700両とソ連軍ジューコフ元帥率いるソ連軍133万、戦車3600両は中央ロシアの平原の要衝クルスクで激突した。その後8昼夜に渡って繰り返された死闘の末、両軍とも結果的な勝利は得ることが出来なかった。
さて、この戦が初陣のパンター戦車は当初の予定に反して、僅か80両程度が参加したに過ぎなかった。しかも、作戦中にオーバーヒートを起こしたり、故障などで失われた車両も多く、ヒトラーが思う活躍をすることは出来なかったのである。
その後、パンター戦車は欠陥と言われた変速機の改良をされて、A型、G型と改良をされながら、計5,976両が生産され、Ⅳ号戦車の約8,000両に次ぐ生産数を誇った。
余談であるが、当時のソ連軍の最強戦車であったIS‐2重戦車の乗員たちの話によると、当時ドイツ軍のティーゲル戦車は生産数の少なさから戦場でお目にかかる機会は少なく、彼等のもっぱらの宿敵はこのパンター戦車だったという。
(藤原真)